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■2004/09/22 (水)
瞑想とは進化である |
《まとめ》大半の瞑想や無意識に関する説明には、発達論的ないし進化論的関心が欠如している。つまり瞑想を、むりやり無意識のなかに入り込んで、抑圧されたいやな事態を逆転させる方法とみなす。しかしこれは瞑想にとって二義的な問題である。
本来の瞑想とは、唯一の統一が存在するようになるまで、あらゆる潜在的可能性の実現に向けて、またあらゆる基底無意識が意識として開花する時点に向かって、次々により高い秩序をもった統一が自然の流れにしたがって花開く開花である。瞑想とは、進化であり、超個的な領域へ向かっての変容である。超個的な領域は、実は発現無意識の一部であり、瞑想はその発現を単に加速するにすぎない。(『アートマン・プロジェクト』第12章、瞑想と無意識、244、255)
■瞑想とは進化である
ひさしぶりの書き込みだ。あきらめたわけではない。ウィルバーは、こうしてゆっくりとでも、まとめつつ学んでいくだけの価値のある思想家だ。
今回から第12章「瞑想と無意識」に入る。瞑想には、確かに個人的な抑圧を開放する機能があるが、それは瞑想にとって本質的な働きではないというのが、ウィルバーの主張だ。
ここでも基底無意識が、発現無意識とほぼ同じ文脈で使われているから、おそらく同じ事態を基底という面から見るか、それが発現するという展開の面から見るかの違いなのだろう。いずれにせよ、それらは抑圧された無意識ではない。抑圧されたものの解放ではなく、もともと基底にあったものの発現、開花と言う側面こそが、瞑想にとって本質的なのだ。そして、それは成長であり、進化でもある。
《まとめ》たとえば、プレローマから身体自我、心的自我へと進化した人の場合、以前として基底無意識のなかには、微細、元因領域の深層構造が存在する。発達サイクルのいかなる時点であれ、基底無意識からまだ浮上していないこれらの深層構造は、発現無意識と呼ばれる。自我のレベルにいる者にとって、下位微細、上位微細、下位元因、上位元因は発現無意識である。それらは無意識的ではあるが、生まれてこのかた抑圧されたことはない。
微細・元因の発現無意識は、古代無意識といくつかの共通点を持つが、両者の違いは、古代無意識が人類の過去であるのに対し、発現無意識は、人類の未来であるということである。(『アートマン・プロジェクト』第11章、無意識の類型、199)
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基底無意識とは、「将来いつの日か、想起をとおして発現しうる可能性をもった潜在性として存在する深層構造のすべて」だということであるが、では発現無意識との違いは何か。基底無意識は、まだ発現してい深層構造であるから、「基底無意識からまだ浮上していない深層構造」としてとくに発現無意識として、何かを基底意識から区別する必要があるのだろうか。この辺はよくわからなかった。
ともあれ、これで第11章、「無意識の類型」は終了である。
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■2004/07/31 (土)
埋め込まれた無意識(2) |
《まとめ》自己が、言語的な心の構造と独占的に同一化している限り、その構造を自覚できない。同一化を壊さないうちは、それを自覚できないというのが、排他専一的な同一化の性質である。つまり、すべての排他的専一的同一化は、無意識的な同一化なのである。これが「埋め込まれた無意識」の意味である。
たとえば、フロイトのいう超自我は、「埋め込まれた無意識」の一例である。それは自己として埋め込まれているために、自己はそれを全面的に見ることも、正確に見ることもできない。それは無意識的ではあるが抑圧されていない。それは抑圧するものであり、他の要素を無意識に送り込みながら、自らは本質的に無意識にとどまる。(『アートマン・プロジェクト』第11章、無意識の類型、197)
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言語的な心、つまり思考によって成立するわれわれの心。たとえば、小学生の低学年なら、おそらくそうした心に排他的専一的に同一化しているだろう。そういう自分を相対化して見ることはほとんどありえないだろう。しかし、思春期となると話は別だ。自分を客観的に見つめる心が芽生える。自意識が芽生える。しかしそれは、他者の目を気にし、他者の目から自分を客観視しているだけかもしれない。
通常の大人が、たとえば怒り来るって相手をののしっているときは、自己に専一的に同一化し、怒り狂う自分を客観的に眺める視点は、おそらくないはずだ。しかし、しばらくして落ち着いてあのときの自分を振り返るとき、自己を見つめるもう一つの自己がある。怒った自己に自覚的である。
では、言語によって自己中心的な思考を続ける心をたえず客観視する視点を持ち続けるとどうなるだろう。そんなときにこそ、自己は構造的に、心への排他的専一的な同一化を脱しつつあるのかもしれない。
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■2004/07/28 (水)
埋め込まれた無意識(1) |
基底的無意識、古代的無意識、潜在的無意識、埋め込まれた無意識、発現無意識という五つの無意識の類型のうち、埋め込まれた無意識については、2回にわけて、まとめる。
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《まとめ》身体を所有していることを悟った瞬間、子どもはもはや単なる身体ではなくなる。自分の身体を自覚し、超越し、心をもってそれを見つめ、単なる身体ではありえない。同様に、大人は自分が心をもっていることを悟った時点で、単なる心ではなくなる。心を超えた微細領域から心を知覚しはじめるのだ。それらの時点に達する以前は、自己は、それらの構造と独占的に同一化していたため、それらを自覚できなかったのだ。自己がそれらの構造を見ることができなかったのは、自己がそれらの構造だったからである。言い換えれば、発達の各レベルにおいて、人は「見る当体」をまったく見ることができない。観察する構造は、観察している自分自身を決して観察することができない。(『アートマン・プロジェクト』第11章、無意識の類型、196)
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これを受けて「埋め込まれた無意識」の意味が語られるが、それについては次回。
ところで、たとえばヴィパッサナー瞑想で心の働きに気づくということは、すでに「心」を超えた領域から「心」に気づいているということになるのか。少なくとも、ヴィパッサナー瞑想で、つねに自分のこころの働きに自覚的であるとするなら、「心」への無意識的な同一化から脱する度合いが深まるのだ。
《まとめ》潜在的無意識とは、個人の生涯において、かつては意識的であったが、現在、自覚から締め出されているものをさす。抑圧された潜在的無意識とは、意識に浮上して表層構造をもったにもかかわらず、意識的構造と両立しないために、強制的に無意識に抑圧もしくは押し戻される基底無意識の側面である。抑圧された潜在的無意識の個人的側面は影(シャドウ)である。影が抑圧されるおもな理由の一つは、それが、自我と両立しえない本能的衝動を背負った古代的無意識の乗り物になるからである。
(『アートマン・プロジェクト』第11章、無意識の類型、190〜192)
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ここではじめて馴染みの深い、フロイト的な意味での無意識が登場する。それにしても、これが無意識構造のほんの一部でしかないということに注意しよう。そして、無意識の類型が、全体としてウィルバーの理論にどのように構造的なかかわりをもっているかを理解することが大切だ。
《まとめ》古代的無意識は、個人的経験の所産ではない。それは、祖先と同じような形で世界を経験し、また対応する素因もしくは潜在性なのだ。つまり古代的な深層構造である。それゆえ、最初から無意識的であっても、抑圧されてはいない。それは、基底無意識から浮上するもっとも初期の原始的諸構造を含んでいる。
フロイト自身、個人的無意識と古代的無意識を区別する必要があることに気づいた。クライアントの症状、夢、空想を分析する際、現実の過去の体験や個人的空想の所産であるものと、生まれてこの方、個人的に体験されたことがないにもかかわらず、非人称的な古代遺産をとおして意識に入ってくるものとを区別することは重要である。ウィルバー自身の意見では、前者は分析的に、後者は神話学的に扱うのが最良である。。(『アートマン・プロジェクト』第11章、無意識の類型、188・189)
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フロイトが「系統発生的遺産」と読んだ古代的無意識は、ユングがゆくゆく元型と呼ぶものに対応する。ただし、それらをどう理解するかは、両者でまったく意見が違うようだ。
いずれにせよ、ユングだけでなく、フロイトも、そしてウィルバーもそのような無意識の存在を確認していたのである。
《まとめ》基底無意識とは、将来いつの日か、想起をとおして発現しうる可能性をもった潜在性として存在する深層構造のすべてである。身体から心(マインド)、霊(スピリット)、粗(グロス)、微細(サトル)、元因(コーザル)に至るあらゆる意識に付属する、全人類に与えられたすべての深層構造は、基底無意識のなかに包含されている。これらの構造は、無意識ではあっても抑圧されてはいない。生まれてこのかたまだ意識に入ってきていないからである。発達ないし進化はは、深層構造の基底無意識からの階層的変容もしくは開花の連続からなっている。もし、基底無意識がすべて発現してしまえば、存在するのは意識だけである。すべてが全者として意識的になるのだ。すべての潜在性が実現された結果は、アリストテレスがいうように神なのである。(『アートマン・プロジェクト』第11章、無意識の類型、184)
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フロイト的な無意識と抑圧の概念とは、まったく違う。むしろ、人間の発達、進化の潜在的な可能性のすべてという意味で、フロイト的な無意識とは逆の意味といってよい。ウィルバーの発達理論の、文字通り「基底」となっている無意識といってよい。
新しい章にはいる。
《まとめ》「第11章、無意識の類型」だ。ウィルバーは、無意識をあらかじめ与えられた静的なものではなく、発達するダイナミックなものととらえる観点に立って、五つの基本的なプロセスの類型を概観する。
その五つとは、基底的無意識、古代的無意識、潜在的無意識、埋め込まれた無意識、発現無意識である。以下、それぞれについてかんたんに見て行く。
(『アートマン・プロジェクト』第11章、無意識の類型、193〜)
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ということで、少し間があいたが、また再開だ。この五つをそれぞれ紹介するつもりはなかったのだが、かんたんにでもそれぞれまとめないと、流れがうまくつかめない気がしてきたので、やってみる。
自己は、しだいに現行の構造と「脱同一化」して、次に浮上するより高次の構造に「同一化」していく。自己は、その下位構造との排他専一的な同一化から離れていくと言ってもよい。その構造を放棄するのではなく、ただそれ以上その下位構造に対して排他専一的に同一化しなくなるのだ。
たとえば、身体は成長の初期段階においては自己感覚の「全体」をなしていた(身体自我)。が、心が浮上し発達するとともに、身体は全的自己の単なる一側面、一部分となった。同様に、微細(サトル)レベルが浮上するとともに、心と身体は、新たな、より包括的な自己の単なる側面、ないし部分にすぎなくなる。
一つひとつの成長形式は本質的に同一で、それは超越の形式であり、また発達の形式でもある。潜在意識から自己意識をへて超意識へとゆるやかな曲線をたどり、そもそもの始めからずっと存在しつづけていたあの「統一性(ユニティ)」、時間のなかをすすむ魂の出発点であり、終着点でありつづけてきたその「統一性」だけが残る‥‥‥そうした地点まで、それはとどまることを知らない。(『アートマン・プロジェクト』第10章、発達の形式、175から179)
ここから第10章「発達の形式」に入る。文字通り、これまで語られてきた発達の形式、共通の構造について簡潔に語られる。
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発達の形式、変容の形式は、子宮から神まで一貫している。各段階ごとに、一つのより高次の構造(より複雑で、それゆえにより統一されたもの)が、先行するより下位のレベルの分化を通じて「浮上」する。この高次の発現は、種々の象徴的構造によって媒介、ないし介助される(主要な象徴的構造のいくつかをあげると、ウロポロス的形態、中軸的形態、イメージ、言葉と名前、概念、ヴィジョン・イメージ、イシュタデーヴァー元型、最終―〈神〉、そして〈無形なるもの〉自体、など)。すなわち、上昇の各段階ごとに、しかるべき象徴的形態(それ自体その段階で浮上するもの)が、そのレベル特有の意識モードを次のより高次の意識モードヘと変容させるのである。
この高次の構造が意識に導入されると、しだいに(それはほとんど一瞬の内にも起こりうるし、かなり長い時問かかることもある)自已はその新しく浮上した構造に“同一化する
たとえば、身体が物質的世界とのブレローマ的融合から浮上したとき、意識は初めて身体自已となったが、それは意識が身体に同一化したことを意味している。自己はもうプレローマ的融合に拘束されたくなったかわりに、今度は身体に拘束されることになった。
意識内に言語が浮上するとともに、自已は単に生物学的た身体自已から構文法的自我へと移行しはじめた―自已は徐々に言語との同一化を深め、構文的自已として作用するようになったのである。そのとき、白已はもう排他専一的な身体の狗束からは解放されているが、かわりに心的自我に拘束されるようになる。
同様にして、より進んだ進化においては、神格―〈元型〉が浮上し、意識に導入されると(微細領域)、自已はその〈神格〉に、その神格として同一化するとともに、その同一化に基づいて機能するようになる。そのとき、自已はもう排他専一的に自我に拘束されてはいたいが、かわりにそれ自身の〈元型〉に拘東されている。ようするに、一つひとつの高次の構造が浮上するたびに、自已はやがてその構造に同一化する―これは正常で、自然で、適切なことでおる。(『アートマン・プロジェクト』第10章、発達の形式、174〜175)
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