ばるぼら’s M.M.M.Diary

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さるさる日記

2003/06/20 (金) 『怪談』(1)

 3000枚売れればヒットといわれる業界ならば、ここでの宣伝も少しは意味があるだろう…ということで、今日は日本映画『怪談』です。1964年、にんじんくらぶ製作。

 監督・小林正樹の代表作であるばかりでなく、国際映画祭でも数多く受賞し、恐らく世界で最も有名な日本映画のひとつであるにもかかわらず、日本国内では<呪われた名作>としての道をたどったいわくつきの作品。このたびようやくDVD化され、しかも製作当時のロードショーでしか一般公開されなかった完全版での登場となりました。6月21日、東宝より発売

 当時、既に斜陽といわれていた映画産業ですが、邦画の水準は現在とは比べものにならぬほど高かった。同じ年に製作された主な作品は、勅使河原宏『砂の女』、内田吐夢『飢餓海峡』、今村昌平『赤い殺意』、岡本喜八『ああ爆弾』、篠田正浩『乾いた花』、工藤栄一『大殺陣』…日本映画史に記憶されるべき傑作ぞろいで、私など題名を挙げるだけでめまいに似た恍惚感を覚えます(^^;)。

 この作品は、『クレオパトラ』に比べれば桁が2つ違うとはいえ、当時の日本映画としては破格の大作、しかも独立プロによる自主制作でした。

 小泉八雲の原作から選ばれた「黒髪」「雪女」「耳無し芳一の話」「茶碗の中」の四つの物語が、それぞれ独立したエピソードとして構成されています。今や完全に絶滅してしまった<オムニバス映画>で、通常の映画4本ぶんの予算と労力を、1本ぶんにつぎこんだ形。

 それぞれのスタッフ、出演者について書き始めると、優にHPひとつ立ち上げなくてはならないので割愛しますが(^^;)、これだけの人材が一同に会した作品は、ちょっと他にないと思います…撮影現場での常軌を逸したこだわりぶりが眼に浮かぶ…(興味がある方は日本映画データベース:http://www.jmdb.ne.jp/1965/co000070.htmを参照のこと)

 CGなどなかった時代で、非現実的でシュールなシーンの多くは、実際にセットで再現されました。
 「雪女」での、吹雪の渦巻く空に、忽然とあらわれる巨大な眼。雪女を演じるのは岸恵子ですが、青をことさらに強調したライティングとメイクで、この世のものとは思えぬ美しさ、怖さです。

2003/06/20 (金) 『怪談』(2)

 「耳無し芳一」冒頭では源平合戦が描かれていますが、ここで登場する壇ノ浦は室内セットに組まれたもので、血の海を想わせる朦々たる紅いスモークと、極端に様式化された俳優たちの演技(ほとんど人形振りみたい)は、視覚面での全編のハイライトです。実際に全身に写経を書き込まれた芳一の無気味さ!

 また怪奇映画としても十分過ぎるほど怖い。特に最終話「茶碗の中」など、60年代末にブームを迎える怪奇ものの先駆ともいえる、一種グロテスクな怖さを感じます。音楽は武満徹が担当、いわゆる楽器演奏をほとんど使わず、効果音や自然音を改変・編集しており、これは映画史上でもユニークな仕事のひとつだと思います。粟津潔デザインによるタイトルも、武満の音楽と共に、この悪夢(白昼夢?)のような作品のイントロダクションとして印象的でした。

 この作品は東宝の配給によって公開され、興行も順調でしたが、残念ながらそれは制作サイドには十分に還元されませんでした。このあたりの問題は、実は今もほとんど変わっていません(「東宝のシビアな計算で黒字になるのは奇跡みたいなもンだ」と言ったのは、黒澤明)。

 まず全国上映にあたって20分ほどカットされ、海外での上映もこの短縮版が使用されました。さらに数年後、制作会社が実質的に解体したため、4本のオムニバス作品はそれぞれ切り離され、独立した短編として、新作の添え物として上映される始末…関係者の尽力によって再び1本にまとめられはしたものの、国内での再上映も基本的には短縮版によるもので、この余りにも巨大な作品は、結局元のままの形では観られない、という状況が、現在に至るまで続いています。当然、私も短縮版でしか見ていないので、今回のDVDによる完全復元はまさに朗報。

 製作からかなりの年月が経過していることもあり、ここに描かれている世界観に共感できない、という人も少なくはないでしょう。しかし好きだの嫌いだのという前に、スタッフ、キャストが一丸となっての完全燃焼ぶりは、残念ながら昨今の映画からは消え去って久しいものです。機会があれば是非一見を!

2003/06/08 (日) 楳図かずお『おろち』(1)

 桑田次郎・水木しげると、<初めは苦手だった漫画家>の作品をとりあげてきましたが、今日は第3弾…というわけでもないですが、楳図かずお『おろち』です。1969年から「少年サンデー」に掲載されました。

 私がまだ幼かった頃、楳図かずおという名前は恐怖の代名詞、いや、恐怖そのものでした。夜がどんどん明るくなり、幽霊やバケモノでさえ、子供にとっては必ずしも<怖いもの>ではなくなっていったあの頃、数多い楳図マンガは、ある意味でこの世の怖いものすべてでさえありました。…私が楳図マンガを<苦手>と感じていたのは、桑田や水木とは少々事情が違っていて、要するに怖かったからなのです(^^;)。

 私が幾分大きくなり、もう夜中のトイレが怖くない年齢に達したころ、楳図はギャグの代表作『まことちゃん』を連載していて非常な人気でしたが、しかしこれも、印象としては怖かった。続いて青年誌で連載した『わたしは真悟』で、ようやく再会、という運びになったのですが、それでも楳図の60年代のマンガを読み直すのは、なかなかに勇気のいる作業でありました。

 『おろち』は楳図自身が、70年代以降に多作する、一連の内省的な作品の原点になったと位置づけている作品です。主人公の少女・おろちは永遠に歳をとらない少女で、エピソードは彼女が見聞きする多くの人々の人生を中心に展開します。
 彼女は基本的に傍観者であり、各挿話の主人公たちが過酷な運命に翻弄され、年齢を重ねていくなかで、一人おろちだけが少女のまま、彼らの人生の節目節目に現れる。ほとんど楳図版『火の鳥』ともいうべき作品ですが、悲惨な結末を迎える登場人物たちが多い中で、ほとんど必要以上に介入しようとしない(挿話により例外はありますが)醒めた視線は、むしろ現在読んだ方が、凄みを感じます。

 ウィンダムの『呪われた村』(映画化タイトル『光る眼』)を想わせる「ふるさと」、『何がジェーンに起こったか?』など、60年代に流行したサイコ・サスペンスの影響が濃厚な最終話「血」など、いずれも楳図流に絶妙に翻案されていますが、このあたりの換骨奪胎のうまさは、この世代の漫画家に共通する資質かもしれません。

2003/06/08 (日) 楳図かずお『おろち』(2)

 この作品には、妖怪や化け物の類はほとんど登場しません。むしろ人間の持っている妄執とでもいうようなものが、恐怖の対象になっています。
 楳図の描く恐怖が、他の多くのホラーマンガと決定的に違っているのはここで、楳図世界においては、実は妖怪より人間の方がよっぽど怖い

 この作品に限らず、読者の恐怖が最高潮に達するのは、化け物や猟奇的な犯罪行為そのものではなく、恐怖に恐れおののく人間の、凍りついた表情があの独特のタッチで見せられるときなのです。

 そして楳図フォントとも言うべき、ワン&オンリーの描き文字は、単に平面に描かれた擬音という域をはるかに超えて、私たちの深層心理(?)にまで響きわたり、恐怖を増幅させる聞こえざる音であるような気がします。おそらく楳図は、「音を読ませる」ことを意識した最初の漫画家(少なくともその一人)だったでしょう。

 当時の<怪奇ブーム>の中で濫作された多くのホラーマンガが、今となっては資料的価値とキッチュ的な興味でしか読まれなくなっているのに対して、楳図作品がなお読者に恐怖を与え続け、読まれ続けているのは、楳図の描いた<人間の恐怖>が、現在ではよりリアリティを持って感じられる、からではないでしょうか。
 この作品に通奏低音のように流れる、ある種の諦観は、続く『イアラ』や『漂流教室』で遺憾なく描きつくされ、幾つもの代表作を生み出しました。
 
 ちなみに、おろちのモデルになったのは、当時売り出し中だった藤圭子であるという説(作者本人が言及している訳ではありませんが)あり。
 確かに、単に顔のつくりが似ているというだけでなく、清楚で無垢でありながら、世の中の裏面を眺めつくしたような表情には、共通するものを感じます。また、長谷邦夫が「パロディまんが劇場」のシリーズの1本として描いた『おそろち』という短編は、必読の名作(?)です(^^;)。

 この作品は現在、小学館から愛蔵版が出ていますが、哀しくなるほどカバーデザインが最悪。表紙のカッコよさという点では秋田書店のサンデーコミックス版が何といっても随一で、おそらく古書店でもそれほど高値にはなってないと思うのですが・・・

2003/05/23 (金) 水木しげる『妖怪博士の朝食』(1)

 今日は水木しげる『妖怪博士の朝食』です。1992年から「ビッグゴールド」に連載されました。「不思議編」と「妖怪編」の2部構成になっていますが、基本的には短編集で、現在は小学館から出ている文庫版で入手できます。

 前回、子供のころ桑田次郎の画が苦手だった、と書きましたが、実を言うと、私は水木しげるの画も、桑田のそれとは違う意味で「苦手」でした。
 当時既に『ゲゲゲの鬼太郎』は、子供なら知らない者がいないくらいの人気作品でしたが、手塚治虫〜石森章太郎のラインから入門した正統派マンガ読み(?)としては、水木の描く何とも頼りなくてフニャフニャしたキャラクターたちにどうしても馴染めなかった。背景がなまじとんでもない細密画だけに、あの人を喰った描線には凄い違和感を感じたものです(さらに前に描かれた、貸本時代の鬼太郎シリーズなどを読むと、意外なほどモダンなタッチの画で驚かされますが)。

 水木作品に出会い直すきっかけになったのは、『総員玉砕せよ!』をはじめとする一連の戦記もので、初めて読んだ「鬼太郎」から15年ほども経ってからでした。
 いろいろ読んでいくと、子供の頃TVアニメの「鬼太郎」で印象に残っていたエピソードというのは、実は鬼太郎以外の短編からストーリーを採ってきた作品が多かった(『原始さん』『マンモスフラワー』など)。お話だけみると結構教訓的なものが多いのですが、イヤミな感じがしなかったのは、水木の描いた世界がしみじみとした情感にあふれ、その一方で決してウエットに流れなかったせいではないかと思います。

 水木自身、ある単行本の端書で、「ストーリーではなく、雰囲気を読ませるマンガ」を描いてみたい、と発言していますが、小島剛夕とはまた違う意味で、いわゆるトキワ荘の人たちの描いた<青春の産物>としてのマンガとは明らかに一線を画した世界。
 水木の描線が醸し出す不思議な気分を理解するには、読む側にもやはりそれなりの年齢の積み重ねが必要だった、ということでしょうか。

2003/05/23 (金) 水木しげる『妖怪博士の朝食』(2)

 『妖怪博士の朝食』は、ある意味で水木のそうした路線の総括ともいえる作品です。
 妖怪漫画家の水木先生や、民俗学者のアリャマコリャマタ氏(妖怪と語らいながら一緒にタイヤキを食べたりする^^; モデルは荒俣宏氏)らのレギュラーに混じって、“幸福観察学会会長”ねずみ男氏が久々の単独出演。他にも水木作品ではお馴染みのキャラクターたちが多数出演しています。

 人生とは環状線の電車に乗っているようなもので、「死」は無に帰するのではなく、単なる一時的な「下車」に過ぎない。もう一度乗ろうと思えばいつだって乗れる。死を経験したばかりの老人が、死後の世界で草木や石と語り合うシリーズ第一話「不思議電車」は、数多い水木しげるの短編の中でも、私が特に好きなものの一つです。

もともと 木や石や人間は それほどへだたりがあるわけではないのです
人間は 心配しすぎるんですよ・・・・そうです、宇宙の仕組みは なにも心配しなくてもいいように 作られているのです

 他にも、山の精霊たちに見初められ、多くのもののけたちと交わりながら彼らの子孫を残していく村娘の物語「山姫」、ある朝突然人間の顔が自分の家の間取り図(!)に変貌してしまう寓話「屋敷神」など、水木しげるならではの“雰囲気”が横溢した名編ぞろい。

 連載当時、既に水木は70歳で、これは現役漫画家としては相当な高齢ですが、もともと枯れた描線を持ち味にしている人とはいえ、少しも衰えた感じがしないのは驚きでした。

 このシリーズにしても、正直なところ(伝承・説話の類を元にしているとしても)寓意としてはかなり古臭い筋立てが使われている挿話もあるのですが、私が子供の頃から少しも変わらぬこの画で描かれると、少しもズレた感じがしない。

 水木が志した「雰囲気を読ませるマンガ」という潮流は、その後さまざまな形で浸透し(直系ともいえるつげ義春、或いは坂田靖子や今市子の一連の作品を想起されたし)、日本マンガの財産になりました。
 水木しげるに馴染みがない(または「鬼太郎」しか知らない^^;)、という人にこそ読んでいただきたい作品だと思います。

2003/05/11 (日) 平井和正&桑田次郎『デスハンター』(1)

 今日は平井和正&桑田次郎『デスハンター』です。1969年から「週刊ぼくらマガジン」に連載されました(後に『死霊狩り』というタイトルで小説化)。
 単行本に、原作者のメッセージが載せられているのですが、これが凄い。SFマンガが人気を博しても、それが商業主義へと過度に傾いており、実際にSFをこなせる人材がほとんどいない現状を嘆いたうえで、

私には志がある。SFマンガというひとつのジャンルの成長に寄与したいという強い情念だ

 ほとんどマニフェストというべき文章ですが、他の平井原作に比べてもハードな展開は、なるほど大見得切っただけのことはある

 平井和正&桑田次郎は『エイトマン』以来のコンビで、私も全部読んでいるわけではないのだけれど…自ら「量産はできない」と言っていた平井和正が、桑田とはほとんど座付作家といってもいいくらいの頻度で組んでいたことをみても、2人の間に強い信頼感が生まれていたことがうかがえます。

 「ぼくらマガジン」は、当時、意識的に読者層を引き上げていた「少年マガジン」に対して、より低年齢層の読者をターゲットにした雑誌だったということで、そういう意味では当時の私など<正しい読者>でしたが…。
 この作品も、連載後半はリアルタイムで読んでいたはずですが、正直いってよく憶えていません。

 …というより、肌触りの冷たい、怖いような作品だ、という印象で、はっきりいって苦手だった、といった方が正確。なぜこんなクールな画が少年誌で超売れ線だったのか、手塚とは別の意味で不思議な感じがします。
 私がこの作品に<再会>して、そのハードな展開に改めてショックを受けたのは、それから約15年後。古本屋で入手した単行本がきっかけでした。

 レーサーとしての腕と、強靭な生命力を買われた主人公・俊夫は、シャドウという男にスカウトされ、カリブ海の無人島に赴く。そこで待っていたのは、獰猛な猛獣たちと、彼と同じようにして世界中から集められた殺しのプロたちとの、殺るか殺られるかのサバイバルゲームだった。それは、「デス」と呼ばれる宇宙からの侵略者に対抗するための組織「デスハンター」の資格試験だった…。

2003/05/11 (日) 平井和正&桑田次郎『デスハンター』(2)

 「デス」は不定形の生命体で、人間に寄生して操りながら侵略する、という、今みれば古典的ともいえる侵略ものですが、主人公は自分の<使命>なるものにまったく自信がなく、ひたすら苦悩し続ける、というあたりは、すべての平井原作に通底する世界観でもあります。

 デスハンターとしての主人公の最初の標的は、「デス」によってからだを侵略された恋人で、結果として彼は彼女を惨殺してしまいます。
 この作品前半のクライマックスですが、桑田次郎のクールでシャープな画は、今でも十分すぎるほど衝撃的で、マシンガンの乱射で顔を半分ふっとばされながら向かってくる恋人(!)の姿は、残酷さの中にも妙な色気を感じさせる名場面だと思います。

 この後に続くエピソードでも、「デス」に侵略された科学者一家を、幼い兄妹を含めて皆殺しにしたり、とにかく強烈。桑田次郎も暗喩的表現は殆ど使わず、真正面からこの救いのないストーリーを画像化しています(…もう一度言いますが、この作品は低年齢層向けの雑誌に連載されました^^;)。

 さらに後半になると、ハンターの一員でヒロイン的役割を演じる、リュシール(彼女は元アラブ・ゲリラという設定)が、昔の仲間から裏切り者として拷問を受け、顔の皮膚を焼かれるというエピソードまで登場します。
 病院を脱走し、包帯でグルグル巻きにされた姿で雨の中をさまよう彼女の姿が、また妙になまめかしかった
 私などははるか後、某アニメで包帯姿のキャラクターが絶大な人気を博した時、思わず「リュシールじゃん!」と思ってしまいましたが(^^;)、現在ではひとつの類型になった、感情を極端に押し殺したクール・ビューティのキャラクターは、案外桑田次郎がオリジンかもしれません(当時は切れ長の眼の女というだけで珍しかった)。

 平井はこの後、『スパイダーマン』(画:池上遼一)を最後にマンガ原作から離れてしまい、小説家として完全に一本立ちしたのは周知のとおり。
 それはそれでめでたいことなのでしょうが、しかし私としては、この名コンビの作品をもう少し読みたかったなあ、と思わずにはいられないのです。

2003/05/04 (日) 清原なつの『花図鑑』(1)

 今日は清原なつの『花図鑑』です。1991年から「ぶーけ」に掲載されました。この人の作品は現在、短編の多くが早川書房から文庫化されていますが、残念ながらこれは絶版になっているようです。

 初めて読んだ清原なつののマンガは、『光の回廊』でした。それも実に邪道な理由からで(^^;)、当時友人から「ブルーザー・ブロディが少女マンガに出てる」と聞き、興味を持ったのが最初でした。・・・読んでみると、ほとんどブロディ追悼マンガともいえる偏愛ぶりで(モデルへの愛が感じられるという点では、小林まこと『1・2の三四郎』の桜五郎=上田馬之助と双璧^^;)、物語前半の要になる儲け役。それ以上に、ストーリーの痛々しさと画そのものの軽さの距離感が妙にひっかかる作品でもあって、以来清原作品を追いかけることになりました。

 『花図鑑』は、他の清原作品にも通底する、不思議な雰囲気を持った短編連作です。それぞれのエピソードは(例外もありますが)独立したお話で、統一された主人公が登場するわけではありません。
 単行本1巻を入手した時、巻末の著者のことばに「花というのは、植物のアソコです」という文句が登場して仰天したのを憶えていますが、これに代表される作者自身のどこか醒めた視線と、連載当時使われていたという「愛と性のシリーズ」という気恥ずかしいアオリ文句の間にある距離感(非同一感、といってもいい)が、この作品の世界を表している気がします。

 透明感のある画と、グロテスクとさえ言えるストーリー。清原なつののマンガが語られる時の決まり文句でもありますが、実際(このシリーズに限りませんが)お話はかなり陰惨で救いのないものが多い。取り上げられた題材だけを抜き出していくと、連続殺人、強姦、幼女虐待、性同一性障害…と、とにかくありとあらゆるネガティヴなファクターがてんこ盛りになっています。

 ただ、画そのものは、いかにもこの頃の少女マンガ、という感じの絶妙に記号化された画風で・・・はっきり言ってしまえば、登場人物の顔は男も女も基本的にみんな同じなので、ストーリーがどんなに暗鬱で残酷な方向に進んでも、それほど生々しさがない

2003/05/04 (日) 清原なつの『花図鑑』(2)

 過度に直接的な表現になってしまいますが、彼ら彼女らの肉体に実際に性器がついているようには、とても思えないところがあって、それがこの作品の不思議な空気感を作り出してもいました。
 連載当時は、いわゆるレディース・コミックと呼ばれるジャンルの勃興期でもあり、かなりきわどいものが話題になってもいた時期で、そういう風潮も多少は影響しているのかもしれませんが、この作品の雰囲気はむしろ達観というか、ある種浮世離れしたところがあって、今の視点で読んでも魅力的です。

 ある意味で、清原なつののキャラクターたちはみな、告白前夜の、胸が高鳴って眠れないあの一夜を永遠に過ごし続ける少女なのかもしれない。描かれる行為そのものは非道徳的であっても、そのモチーフになっているのは、実はいじましいくらいの純愛だったりする。

 そして多くのエピソードに登場する、絶妙にねじれた円環の物語構造。登場人物たちはひたすら堂々巡りを繰り返しながら、いつの間にか開始地点とは遥かに離れた場所に立ちつくしてしまい・・・同時に読者である私たちも、知らず知らずのうちに予想もしなかった場所まで導かれてしまいます。

 ただ、本来ひどく淋しい、寂寞とした印象の物語のはずなのに、読み進むうちにそれが妙な快感に変わってくるのは、清原なつの自身が分析しているように、基本的にはすべてが<大人未満の少女のお話>であり、誰でも思い当たるあの時期の、恥づかしくも懐かしい想いの上に作られている・・・からなのではないか、とも思います。

 この作品の後、清原は心地よく歪んだユートピア(=家庭)を舞台に、欠陥だらけのスーパーマンが活躍する『ワンダフル・ライフ』を発表。私としてはこの後の展開が非常にスリリングに感じられて、楽しみにしていたのだけれど・・・
 その後は新作のニュースが聞かれない(ごく短い読み切りは描かれているようですが)のは、ファンとして残念でなりません。

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