森の13月

▲▲▲the thirteenth month in forest▲△▲

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さるさる日記

2007/05/04 (金) 多和田葉子『アメリカ――非道の大陸』青土社(2006)

さすがのチョイスでした。ありがとう!

「なつかしいパリの街なかのようすがテレビに映ると、なんだか第三世界みたいに見えてしまう。……」「貧しそうに見えるってこと? つまり、この閑散とした通りが、豊かさのあかし?」「そんなはずはないんだけれど。」

さあ出発しましょう、という一言から始まり、アメリカに滞在する「あなた」が目にした数奇で歪な大陸が、13編に渡って描かれている。静けさをたたえた鋭い目線。あの海外にいるときの異邦人感そのままの、表層を横滑りしていくようなディタッチメントされた文体と、本書の内容がピッタリ合っている。使い分けているのかしら、だったらすごいな。

大学で教員をしているアンは「あなた」に、シアトルにいた頃をこう話した。

「大通りに面した喫茶店で本を読みながらコーヒーを飲んだっけ。店の中にも外にも人がたくさんいて、それぞれ勝手なことしてたっけ。一度目にするだけでもう一生同じ瞬間に同じ場所にいないかもしれない人たちに囲まれて、気分はいつも高揚してた。でも、家族が欲しいと思ったこともあった。それ以外はみんな通行人だから」。

国立のスタバでいつも思っていたことと、本場シアトルで教壇に立つアメリカ人女性が語ったことが、もしも似通っているとするならば、非道の大陸はアメリカだけじゃないのかもしれない。

2006/10/13 (金) ポール・オースター『ティンブクトゥ』新潮社(2006)

いい本をありがとう!

「もう少し時間が要る。息を取り戻す時間がさ。それからまた考えればいい。考えなくてもいい。考えなかったら」とある、そしてこうつづく、「見渡す限りよりもっと向うまで闇あるのみ。はるか海まで、何ひとつ存在せずこれからも存在せぬであろう無の海の深き底まで。底にあるのは俺のみ。だがその俺も俺にあらず。永遠あるのみ」

ああなんという孤独だろうと膝をつき、世に商品として存在する野生を奪われし兄弟たちよ、まだ見ぬ幸せだけを待つ犬助たちよ、汲み尽くせぬほどの言葉を引き出してくれる束の間の相棒たちよ、下僕たちよ、こんな僕でさえ、動物を愛する資格のないこんな僕でさえ、犬たちが我々の心を静かに繋ぎとめくれる秘密が何となくわかったような気がする。

オースターはその通路がずいぶんと狭くなってしまった寓話というチャンネルから、我々に問いかけている、とっても小さくなってしまった声で、こう問いかけている。「記憶とはひとつの場所、訪れることのできる本当の場所」なんだと、そして孤独な犬たちである我々は一つの大きな目を手にすることとなる。「上から見てくれているその目というのが、実は自分のなかにあるのだとしても、大きく見れば違いはない。なぜならそれら見守ってくれる目こそ、この世で独りぼっちだと感じることと、独りぼっちではないと感じることの違いにほかならないのだから」。

大きな慰めと悦びの源とは何だろうか、あなただろうか、犬だろうか、わたしだろうか――、もしそんな場所はあるとすれば、何という名前だろう。わからないけど、きっと、そんな場所があるんだとつぶやきながら、失うことのできない記憶からジャンプしつづけ、考えることを手放さないこと、輝かしき「ティンブクトゥ」とは、そうやって生きていく、まるで僕の書く冗長な文章のような現実のなかにあるんじゃないかって思う。

2006/10/05 (木) 新宮一成『ラカンの精神分析』講談社新書(1995)

「科学する主体は、同時に精神分析する必然性を持つ」

素敵な音楽家に貸していただいた本書であるが、これほどの知的興奮を味わったのはいつぶりだろうかというほど頭の再編が行われ、僕の頭がまだ柔らかいうちに出会わせてくれたことをopato3さんに感謝するとともに、百ページ目くらいの時点で書きこみを我慢できず、すぐに書店で新刊を買い求めたほどの名著であることお伝えしたいが、とは言ってもラカンの理論は難しいので読書に不慣れな方にはお勧めできないけど、薄っぺらい宮崎吾朗にはラカンのアクロバチックな思考というものを煎じて飲ませてあげたい。

「子供時代は、もう無い」っていう何気ない言葉でもって精神分析の出発点を指し示したフロイト同様に(以下の「私自身」を「子供時代に感じとっていたもの」って置き換えてもいいけど)、ラカンが発見した基本的なテーゼは、ランボーの著した「私はひとりの他者である」というパラドクスのなかにあって、誰でも幼いころに言葉という他人たちのなかに組み込まれることによって、気づいたころには頼んでもいない自我なるものを確立していて(うるわしの去勢をされて)、そこから先は「私とは何なの?」って振り返りつづけることを強いられちゃうけど、私が自分を指し示したと思った瞬間に主体は「私自身」から疎外されちゃう、つまり「私自身」の根拠となっているものは言葉で織りなされた社会的紐帯になんてないんだけど、私たちは言語という他者から離れて物事を認識することはできないというジレンマ、そんな根源的な虚しさともいうべきものを抱えつづけていて、だからずっと私を司る者を、私が存在する必然性を他者の欲望のなかに見いだし、喪失しつづけることを繰り返すんだってこと。

ちなみに「子供時代は、もう無い」にはつづきがあってこうなってる、「子供時代は、そのものとしては、もう無い。それは夢や転移によって、代理されている」、そしてフロイトの正統な後継者であろうとしたラカンはいう、「ここ夢の中で、君は君の家にいるのだ」って、でもあなたの大切な夢にでてきた誰かは、あの誰かじゃなくて他人からみた自分の姿が書き込まれている、つまり夢をみているのはあなたじゃない、そう、ここで彼のもっとも有名な発見がでてくる、「無意識はひとつのランガージュ(言語)として構造化されている」っていう言葉が。

2006/09/29 (金) 1-1

1-1

「一枚の写真、ある現代音楽家と呼ばれる職業の男を捉えた写真。全体に深い緑色の蔦が映りこみ、老人がいて、その前にガラスがあり、きっとガラスの手前にカメラがセッティングされ、撮影者からいえば背後に蔦があってガラスに映っているのだろう……いや、あるいは、ぜんぶは逆で、つまり撮影者は室内にいて、外にいる老人をとらえ、蔦はその奥で自生しているとも考えられる――いくえにも重なった環境音のレイヤー、この写真は彼の晩年の音楽をよく表している、と同時に、私の妻の表現そのものである」

 僕は駅の逆側にある地下の喫茶店に入ると、注文も忘れ、薄暗い店内で写真集のビニールを急いで破いたものの、急に彼女の写真を見ることをためらってしまい、見知っている大学教授が書いた解説から読み進めた。

 彼女は『スパイラル』という写真集でデビューしたあと、この『フェイク』で著名な新人賞をとることになる。写真の大半が二重写し、つまり一枚のフィルムに別々の場所で撮られた二枚の写真が焼きついていて、でも、鑑賞者はそれが二重写しだとは気づかない、そしてこう思う、透明なガラスに様々なものが写りこみ、ガラスの向こう側の景色も写っていて、彼女はきっとそのガラスと、ガラスの先にあるものを、ただ丁寧に留めているはずだと。実際には、そのような面倒な手法の写真も何枚か紛れこませているところが、ややこしいところだけど。
 また、何枚かはデジタルビデオで撮影した二つのシーンが入れ替わる、フェードイン、フェードアウトする瞬間の映像、前の映像が消えかかり、次のシーンが被さってくる、シーンとシーンの狭間をデジタルプリントした作品もあり、これを写真集と呼んでいいのかは少し議論の余地があるかもしれないけど、そういう越境的な部分も含めて審査員たちに受けたんじゃないだろうか、などと、よこしまな想像をした。

 僕はページをめくる。一ページ目の写真は解説にあった老人が、次のページには、古い倉庫のような場所に少女が立っていて(これはたぶんファッション雑誌かなにかに掲載された写真を、ふたたびカメラで撮っているんじゃないだろうか)、その上にぼんやりとした画像で白人の少年が重ねられ、上半身が裸の彼の背景にあったであろう深緑の針葉樹も、うっすらと色を添えている。

2006/08/02 (水) ミラン・クンデラ『不滅』

何度も読み返すだろう僕の人生の最高の一冊。

クンデラの小説はよくポリフォニック(多声的)な小説であると言われる。

クンデラ自身がプールサイドで、ある女性を見た瞬間から小説が駆動し、そこから妹があらわれ、それぞれの男があらわれ、次の章ではゲーテが登場し、周りの女があらわれ、ベートーベンがあらわれ、なぜだかヘミングウェイと語らい、この世に戻ってみると、クンデラの友人の大学教授であらわれ、途中からクンデラ自身も登場して彼と語らい、急に見たことない画家が主人公となり、最後はちょうど二年前に物語が始まった、あのプールサイドに僕らはいる。

どの文章を抜きだしてもアフォリズムのように響いてくる。こんな作家はそういない。彼はいろいろな言葉に別の意味を背負わせて、彼特有の概念を作りだす。第二章の「不滅」という言葉も、死後もなお人々のなかで生きつづけたいという人間の欲望を指す。

「人生において耐えられないのは、存在することではなく、自分の自我であることなのだ」

登場するゲーテの小説も、友人の奇妙な環境保護運動も、反共産運動も(彼はチェコ出身)、姉妹の壮絶な恋愛も、画家のセックスも、死を選んだ女も選ばなかった女も、すべては自我という奔流に流れこんでくる。だけどクンデラは「小説の使命は、現実はいつも君が考えているよりも複雑だ、ということを認識させることだ」と言ったように、彼のメッセージはシンプルである一方で、あまりに多声的である。おびただしい言葉の遊戯がくりひろげられ、ある人は何が言いたいのかよくわからず、怒りだすかもしれない。クンデラの小説を読んでいて、すべては自我の運動でしかないのだと確信したとしても、ふと読み進めていくと、そこにエロスや宗教や思想や育った環境や社会的な地位や愛や死がたえず入りこみ、すべてが自我と拮抗している、そんな場所に僕らは立たされてしまう。

では最後にとってもおきの文章から(こんな文章が延々つづくんですよ〜)。

「生きること、生きることになんの幸福もない。生きること、世界のいたるところに自分の苦しむ自我を運びまわること。しかし、存在すること、存在することは幸福である。存在すること。噴水に変ること、宇宙が温かい雨のように降りそそいでくる石の水盤に変わること。」

なんのこっちゃ! でもかっこいい。……ああ、いったい最初の着想をえた場所(プールサイド)で、クンデラは何を祝ったのだろうか。僕は独りとり残され、いまもそう考えている。

2006/07/12 (水) 「風に舞いあがるビニールシート」 森 絵都

私にとって大切なもの。
あなたには同じ価値を見出せないかもしれない。
あなたにとって大切なもの。
私にも同じように大切に思えるだろうか?

時にそれがズレ生じさせる。
時にそれが隙間をうめるものになることがある。
時に後になってそれに気がつくことがある。

直木賞候補作。
取っても取れなくても私にはいい本だったから。

2006/04/01 (土) 「トリツカレ男」 いしいしんじ

350円ぐらいの金額でこんなに幸せな気持ちになれるなんて
本ってやっぱりいいものだな。
ジュゼッペみたに誰かを救うくらいの愚かさがあればいいのにな。
まっすぐなこと、何かにトリツカレるという事や人には、
なぜかいい香りがしてくるかんじがする。クンクンクン。
そしていしいさんの独特な文体にこころ踊らされ・・・。
それは素敵なリズムのような音楽なんだな。本ていいな。

2006/02/10 (金) 「海に落とした名前」 多和田葉子 (新潮社刊)

多和田さんの小説は閉じられない。
閉じない故の居心地の悪さと、最中と読後に自分に向かって来る言葉たちをいかに呑み込むかにいつも苦戦する。だから彼女の小説を読むことは一種の
見慣れないものやあやふやな不安を掻き立てられるので、緊張している自分を
楽しめるような気がする。常に未知という意味では、この読書という行為が旅行のようなものだと思う。
言葉そのものを解体してみたり、小説の制作過程を物語構成にしてしまうとか、私を曖昧な存在に貶めるやり口とか、多和田葉子ワールドへの旅へいざ。

2006/02/03 (金) サム・メンデス監督『アメリカン・ビューティー』

「美しいものがありすぎると それに圧倒され――
 僕のハートは風船のように 破裂しかける
 そういう時は 体の緊張を解く
 すると その気持ちは雨のように
 胸の中を流れ――
 感謝の念だけが後に残る」

交差する新群像劇の代表格。自分が行き着く先を見せられているようで言葉を失った。世界にはビューティーなものにあふれていて、なにが美しいのかわからなくなって、目移りして色あせてみんな去っていく。だから、つむじ風に舞うゴミ袋にビューティーを見出せるように、僕を変わっていかなくちゃならない。死んでしまう前に。こう添えられる。

「たわ言に聞こえるだろう? 大丈夫
 いつか理解できる」

2006/02/01 (水) 植田正治 :写真の作法

『まなざしの記憶』という書籍は鷲田清一の文章と植田正治との写真が
交差するところに成り立っている。その写真の中に鷲田さんは何か
インスパイアされて言葉を置いていく。

そんな書籍を読んだことがあって、写真展なんて久々に出向いてみた。
古い写真が多く、昭和30年とか50年とか。とても優しく、押し付け
がましくなく、時にとても幸せな気持ちになれた。
技法的な事に関してはまるでわからないけれども、
白と黒の影絵のような写真が何点かあって風景とかとんじゃって、ただ
人物や被写体だけがくっきりと黒く焼きだされたようなその画はタイトルの
つけようもない記憶の断片のようだった。山陰地方、砂丘、家族、子供、
漂流物、風景、遊び心。

写真をうまく撮ることが出来ないので写真を撮るのは苦手だが、見るのは
好きだ。砂丘にはぜひ黒い傘をもって出かけよう。

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