真幸の徒然なるままに

鹿児島の見習い地ビール職人が綴る、サボり気味の日記

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さるさる日記

2010/03/10 (水) さよなら夜行列車(20) ワンゲルと夜行列車・15

行きと同じく、帰りの札幌行き「利尻」号も、旧型車両の増結車はがら空きだった。僕は、その中のひとつのボックスに納まり、眠ろうとした。

北の果ての、単調な線路を列車はディーゼルエンジンを唸らせ、走っていった。窓の外は、民家の明かりもなく、真っ暗だった。うつらうつらとはしたが、なんだか眠れない時間が経過した。
車内はオレンジ色の非常灯だけが灯り、本も読めないくらい。板張りの床の油の匂いが、なんだか懐かしく思えた。向かい側の座席に足を投げ出し、背中で腰掛けるようにしながら、何とか少しでも眠ろうと努力した。
一度、非常に性的な、なまめかしい夢を見て、はっと顔を上げたりした。

それでも、一応は眠ったようで、途中の旭川は記憶にない。目が覚めると、札幌に到着する直前だった。

札幌に到着後、パート員は再び、それぞれの単独行動になった。
僕は、せっかく周遊券を持っているのだからと、夕張に行った。
相変わらず天気が悪く、うっすらともやがかかる中を、夕張行きの1両編成の列車は坦々と走っていった。

今でこそ財政破綻した夕張だが、その当時はまだバブルの余韻の中で、それなりに観光客を集めていた。
石炭の歴史村は、大勢の観光客で賑わっていた。石炭博物館は、炭鉱の仕組みや炭鉱夫の生活にも触れられていて、興味深かった。食堂で食べたバターラーメンが美味しかった。

夕方、札幌に戻った。
パート員は終結し、サッポロビール園で夕食。本場のジンギスカンに、ビールもどんどん進んだ。

それからの行動は、記憶にない。
翌日の午前中、網走市内を観光し、昼過ぎの特急「オホーツク」号でまた札幌に戻ったのは覚えているから、札幌発網走行き夜行の「オホーツク」9号で車中泊したのは確かなのだけど、肝心の「オホーツク」号の事を全く覚えていない。

網走の駅そば屋で細めんのうどんを食べて、一面に雲がかかって真っ白な空の下、網走市内を歩いて回った。
帰る頃には晴れてきた。札幌に帰る「オホーツク」号の窓から見えた網走湖の湖面がきらきら輝いているのや、山越えの時に緑が新緑のように輝いていたのが印象に残っている。

札幌ではパチンコ屋で時間をつぶし、夕方、パート員は再び札幌駅に集結した。

青森行き夜行「はまなす」号で、北海道を離れる時が来た。

2009/12/12 (土) さよなら夜行列車(19) ワンゲルと夜行列車・14

一通り宗谷岬を観光してから稚内市街に戻った。
銭湯で入浴し、コインランドリーで洗濯物を洗ってから、稚内港へ向かった。

稚内港では、やはり山から下りてきた熊本女子大(現在は共学の熊本県立大学)のパートと出会い、利尻島へ向かう彼女らを見送った。
僕らは、後の船で礼文島へ向かった。
気候不順と冷夏で知られる93年の夏だったが、その日の午後は珍しく快晴で、午前中のような強風も収まっていた。船の上からは海の上にいかにも独立峰といった感じでそびえる利尻富士が、夕方の光を浴びているのがきれいに見えた。

礼文島に着いた僕たちは、港近くの空き地にテントを張った。
それから、高台に向かって散策をした。夕暮れで鈍色に沈む日本海に、イカ釣り船の灯りが、一等星のように光りながら浮かんでいる光景が幻想的でもあった。

夜になってから島内の食堂に行った。
みな、名物のウニ丼(1,600円)を食べたが、ウニが苦手な僕は一人だけ、カツ丼(800円)を食べた。これはこれで美味しかった。

翌日は、レンタサイクルで礼文島を観光して回った。
穏やかな前日の午後と変わって天候は急変し、晴れたり曇ったり霧がかかったり、そして冷たい風が強い一日だった。
断崖の下にぽつぽつとある集落や、高山植物のような花の群落を見て回ったり、島の北端にある集落の牛乳屋で「最北限牛乳」を飲んだりした。牛乳屋には、僕らと同じような旅行者が入れ代わり立ち代りしていた。
ストーブの上で湯煎されたビン入りの牛乳は、濃厚で、美味しかった。

3日目。僕らは礼文島を離れた。
天候はさらに悪化し、船は大揺れに揺れた。船に酔った旅行者たちが、揺れる船内でふらつきながら、トイレに行き来した。
僕は、どうせ酔ってしまうならと船ではなく酒に酔った方がましだと思い、ビールを飲んだ。そのためか、船には酔わずにすんだ。

稚内に着いてから、それぞれがめいめいの時間を過ごした。
僕は、食堂でカツ丼を食べてから、パチンコ屋で時間をつぶした。

時間になり、パート員は稚内駅に集結した。
上り夜行急行「利尻」号で、札幌に向かうのだ。
駅は、夏の旅行者でごった返していた。

あれから15年以上が経過し、「利尻」号は乗客減のため夏季だけの運行となり、しかしそれも廃止されてしまった。僕個人にとって、「利尻」号は、あの頃の賑わいだけが印象に残っているから、まるでウソのようだ。

2009/11/16 (月) 「禁じられた好奇心」という映画

僕より一回りくらい下の人にとって、「ユーゴスラビアのサラエボ」といえば旧ユーゴ内戦のイメージらしい。
昭和40年代生まれの僕にとっては、昭和59(1984)年のサラエボ冬季オリンピックのイメージなのだけど。
だから、ユーゴ内戦で、サラエボ市内の高層ビルに砲弾が次々に撃ち込まれて炎上するニュース映像には、ショックを受けた。オリンピックのメインスタジアムが戦死者の埋葬地となっているという報道には、言いようのない悲しさを覚えた。

話は変わって、僕は熊本での学生時代、当地の民放局・RKKが週末の深夜に放送していた(今もあるかもしれない・・・)映画劇場をよく観ていた。
Vシネマのようなものや日活ロマンポルノから、シドニィ・シェルダン脚本のミュージカルや、ヘレンケラーの物語「奇跡の人」のような名作とか、以前この日記にも書いた、ビッグスリー(GM、クライスラー、フォード)に立ち向かった自動車男の物語「タッカー」などなど、あらゆるジャンルを網羅したラインアップだった。
その中に、旧ユーゴスラビアで作られた映画があった。

内容は、反体制派の大学教授と、その教え子との不倫を描いたものだったが、いろいろな意味で衝撃的な映画だった。
ひとつが、あられもない性描写。これが、本当に共産主義国家で作られた映画かと疑ってしまったほどだ。
そして、反体制派に対する陰謀をあからさまに描いて、暗に体制派に対する批判にも通じるような内容であること。当時の東欧の社会情勢を考えれば、非常に勇気のある映画ではないだろうか。
そして、僕がこの映画を観た90年代前半は、ユーゴ内戦が泥沼化していた最中だったけど、そのたった数年前に作られたこの映画には、民族間の対立も、戦争の陰も見当たらず、平和な社会が背景としてあった事だ。

どうして、こんな映画を作った国の人たちが、(あるいは、オリンピックまで開いた国の人たちが)、あんな血みどろの内戦を繰り広げたのだろうか。
この映画の舞台となった旧ユーゴ・クロアチアも、90年から95年までクロアチア紛争が続き、大量虐殺や難民を生じたのだ。

いかに科学や文明や芸術が発達しても、人間の本性はちっとも発達しないものなのだろうか。

この映画の題名は僕にとって謎だったが、ネットで検索してみたらあっさり判明した。
「禁じられた好奇心」ミロス・ミシャ・ラディヴォジェヴィッチ監督、1985年の映画だった。

2009/10/08 (木) さよなら夜行列車(18) ワンゲルと夜行列車・13

0時を回った頃に旭川に到着した稚内行き「利尻」号は、1時間ほど停車した。
九州の「ドリームつばめ」号などは、例えば熊本駅では列車到着の少し前から改札が開くが、北海道では、改札口の入口側は出発直前まで閉ざされたままだった。
改札口の前には、登山者、サイクリング者、旅行者が長い列を作り、「まだかな」とラッチが開くのを待っていた。

ようやく改札が始まり、列車の待つホームに急いだ。
しかし、車内は北限の地を目指す旅人でほぼ満席で、僕らは列車の先頭に増結された車両に乗り込んだ。
通常は、特急仕様にグレードアップされた車両が使用される「利尻」号だけど、増結車両は旧式の、木の床にボックスシートの車両だった。
天井の蛍光灯は全て消され、ところどころ、黄色い豆球が灯っているだけの、暗い車内で、走り出すとエンジンの音がガラガラと響いてきた。

堅い座席にエンジン音で、眠れたのか眠れなかったのかよく分からなかったが、ふと、リーダーの先輩に突付かれて我に返ると、外は明るくなっていた。窓の外には日本海が広がっていたが、晴れていれば見えるはずの利尻、礼文の島は、鉛色の日本海の上に広がる乳白色のもやの向こうだった。
デッキに出て、運転席越しに前方を見ると、海沿いのくねくね曲がった線路が、茫漠とした原野の中に続いていた。

稚内に着いてから、駅前の食堂で腹ごしらえをし、始発のバスで宗谷岬に向かった。
古びたバスは、信号のほとんどない海沿いの道を、アクセル全開といったふうに走っていった。
宗谷岬は、とにかく寒かった。電光掲示板には気温9℃と表示され、風速は10メートル以上あったから、体感温度は氷点下だったはずだ。
日本最北端の岬の向こうには、荒々しい波が砕けていた。時折、濃いガスがかかり、視界は閉ざされた。そんな時には、灯台から霧笛の音が響いてきた。見回しても真っ白い世界の中で聞く霧笛は、なんとなく不気味でもあった。

そんな寂しい印象ばかりが残っているが、思い出してみれば、宗谷岬には、ダ・カーポの「宗谷岬」がエンドレスで流れ、「ラーメンは北に行くほど美味くなる 日本最北端の店 間宮堂」という看板を掲げた店があったり、観光客は貸切バスでひっきりなしに訪れたりと、割合にぎやかな所だった。
屋台で食べた揚げ芋・・・ジャガイモを3個ほど串刺しにして、そのまま揚げただけのものだったが、たまらなく美味しかった。

2009/09/26 (土) さよなら夜行列車(17) ワンゲルと夜行列車・12

夏合宿の大雪山縦走は、十勝岳温泉から入山し、上ホロカメットク山、十勝岳、美瑛岳、美瑛富士、オプタテシケ山、トムラウシ山、化雲岳、五色岳、忠別岳、白雲岳、旭岳と縦走した。

7泊8日の行程中、ほとんど雨と霧と風の中にあったように記憶している。風雨の中では、とにかく寒かった。一部のルートを除き、ほとんど人と会わなかったのは、心細かった。
出発前の遭難対策講習会で、過去、F大ワンゲルがヒグマに襲われた事例をもとに、熊よけの方法、クマに会った時の対処法について勉強していたから、霧の中から、ハイマツの中から、クマが出てくるのではないかと、絶えず緊張していたようにも覚えている。

けれども、トムラウシ山から降りてテントを張ったヒサゴ沼ではきれいに晴れて、澄み渡った北の夕空と、光の加減により刻々と色合いを変える山々と、それらを映す鏡のように滑らかな水面の幻想的な風景は、今も頭に焼き付いている。

心細さと緊張と、それらを経てたどり着いた最後のピーク、旭岳は、大雪山の代表的な山だけあって、行楽客が大勢いた。よくあんな装備でここまで登ってこれたなと思うような、山の下での普段着のような格好の人も多く、僕たちのような重装備の集団は少数派で、逆に浮いていた。

下山途中にロープウェーを使い、旭岳温泉で8日間の垢を落とした。
山荘のロビーで、自販機で買ったどん兵衛を食べたのが、下山して初めての、下界の食べ物だった。
下界にいるとどうと言う事のない普通のカップ麺だが、カロリー摂取重視の山の上での食事に比べると、感激の味だった。それ以来しばらく、どん兵衛にハマりこんでしまった。あれから16年経った今でも、どん兵衛だけは、特別な感慨を持って食べている。

しばらく休憩してからバスで旭川まで向かった。
一面の畑の中に一直線に続く道の中を、バスはかなりの速度で走り抜けていった。
通り抜けるバス停の名前は、○7号、○6号、○5号・・・と、いかにも開拓地らしい名前が続き、やがて街なかに入り、旭川駅に到着した。

その夜、何を食べたか覚えていない。
僕たちは、予備日を礼文島で消化する事になっていた。旭川駅のコンコースにザックを下ろし、行き交う人々を眺めながら、時間をつぶした。
他にも、僕らのような登山者や、自転車の輪行袋を携えた者も、同様に時間をつぶしていた。
夜も更けて、稚内行き夜行急行「利尻」号が到着した。

2009/08/20 (木) さよなら夜行列車(16) ワンゲルと夜行列車・11

青森駅を発車したはまなす号は、1988年に開業した津軽海峡線の高規格の複線の線路を駆け抜けていった。
いくつかの短いトンネルを抜け、そして、入り口に色の違う蛍光灯が灯されたトンネルに入り、そしてそのトンネルこそ、海底トンネルとしては世界最長の青函トンネルだった。
とは言え、窓の外には、いつまでもコンクリートの壁が続くだけだった。
だけど、僕は、いよいよ青函トンネルをくぐって、津軽海峡を経て、北海道に渡るのだと思うと、ドキドキして、ビールを飲むピッチも上がった。

竜飛海底駅のまばゆい光の中をあっという間に通過し、トンネル中間点にある、窓から見るとタンチョウが飛んでいる動画のような電飾を眺め、吉岡海底駅も通過し、そして函館に着いた。

僕らは、肌寒いホームに降りて、駅名票をバックに、記念撮影をした。
同じような事をしているグループが、他にもあった。
車内からは、そんな僕らを笑いながら見ている目もあった。

函館を過ぎてから、僕らの宴会はお開きになった。
大部分のメンバーは、空いていて座席も快適な普通車に移っていった。
しかし僕は、せっかく取った指定券だから・・・と、混雑していて座席も窮屈な指定席車に残った。この辺りが、僕のアホなところだ。

目が覚めると、札幌近郊だった。
広々とした大地に、高層アパートがいくつも並んでいた。九州では、なかなか目にできない光景だ。
空はもやがかかり、真っ白だった。

ところで、僕は二日酔状態だった。
札幌で、旭川行きの特急を待つ間、みんなでホームの立ち食いうどんを食べたが、これがかなり胃に重く響いた。
満席の特急の中で、僕はデッキで座り込み、うんうん苦しんでいた。
旭川から乗った富良野線も、普段の僕だったら鉄旅を満喫するはずが、通路でへたり込んでいた。

いま思い出しても、もったいない事をした。

上富良野で、僕たちは降りた。
他のメンバーが、偶然出会った、どこかの女子大のワンゲル部員たちと観光に行っている間、僕は、駅前広場で座り込んでいた。

いま思い出しても、もったいない事をした。

夕方になり、僕はようやく落ち着いた。
広いコンビニの駐車場に、自衛隊の装甲車が並んでいるのを見て、なんとなく、おお北海道! と思った。

翌日から、大雪山系の縦走に入った。

2009/08/18 (火) 雑記

蒸し暑い日が続いている。
今年はなかなか梅雨が明けず、一時は1993年のような冷夏も覚悟したが、取り越し苦労だったようだ。しかし、夕立は例年より多い気がする。

今日、衆院選が告示。
世間の盛り上がりに対して、僕は冷め切ってしまっている。
自民党への投票は、もはや有り得ないだろう。
民主党は、マニュフェストに突っ込みどころが多すぎる。いろいろ公約をぶち上げたのはいいが、財源はどうするのだという疑問がいっぱい。ついでに言うと、高速道路無料化には絶対反対。現行の制度は受益者負担の原則からすると理にかなっている。それに、炭酸ガス排出削減の流れの中で、航路や鉄道からシェアを奪い、より多くの炭酸ガスを排出させる結果をもたらす事が明白な施策だ。もし実行すれば、失政のそしりは免れないだろう。よって、民主への投票も無し。
共産、社民に投票するほど若くはない。
公明は政策には共感するところが多いのだが、うちの宗教は真宗大谷派だ。
幸福実現党は、宗教宗派以前の問題。
選挙権は行使しなければならない権利だから、投票はするけど、結局は白票を投じる事になるのかな。

僕が働いている部署に、高卒の新人君が研修期間を終えて配属されてしばらく経った。
真面目に働いてくれて大助かりだから、晩飯でもおごろうと思った。
会社近くの焼肉食べ放題の店にしようと思っていたら、彼が「他にも食べ放題の焼肉屋さんがありますよ」というので、その韓国料理店に行った。
行ってみたはいいが、ランチバイキングはあるようだが、焼肉食べ放題はなかった。
彼いわく、
「えっ?ランチって昼食の事なんっすか?食事ぜんぶの事だと思ってました〜」
僕は、思いっきり脱力。
メニューを見てびっくり。夜メニューが異常に高い。
結局、630円の石焼ビビンバだけ食べて出てきたが、これは値段はともかくとして、結構美味しかった。
店のマスターは、言葉からして韓国の人らしい。
こうなると、店の壁にある「ランチバイキング 800円」が気になってきた。
・・・というわけで、今日、再び行ってみた。
いや〜、ランチバイキングは、クオリティ高し。800円という料金はとてもリーズナブル。
ごちそう様でした。

お盆を過ぎてから、朝晩がしのぎやすくなってきた。
昼の暑さは相変わらずだけど、夏は今年も、静かに終わろうとしている。

2009/08/09 (日) さよなら夜行列車(15) ワンゲルと夜行列車・10

青森駅で、札幌行きの夜行急行「はまなす」に乗り換えた。
「はまなす」は、本州から北海道へわたるひとつの手段として、シーズンには特に人気の高い列車だった。
だから、切符を手配する時は、ちゃんと指定が取れるかどうか、気をもんだ。
ちゃんと指定が取れたときは本当にホッとしたが、今度は出発の10日ほど前・・・1993年7月12日、北海道南西沖地震が発生した。なかでも、津波に呑まれて全くの廃墟になった、奥尻島の青苗地区の惨状にはただただ心が痛むとともに、恐ろしさを感じた。
そして、「あっ」と思ったのは、津軽海峡線の線路のニュース映像だった。線路は歪み、架線柱はなぎ倒されていた。
パートリーダーのN江さんからは、「どうなるんだ、行けるのか」と尋ねられ、僕も、行程変更かと覚悟したが、何とか出発直前に線路は復旧した。

さすが人気列車だけあって、通常は寝台車2両、指定席車2両、普通車2両、計6両のところ、指定席車と自由席車が増結されていて、10両以上の大編成になっていた。
指定席車は、これから北海道に渡る旅行者たちで満席だった。大きなスーツケースや鞄が荷棚や通路にあふれ、中には、僕たちと同じように登山に向かうところだと明らかに分かるいでたちのグループもあった。
時間が来て、発車。
はじめは、僕たちは指定された座席でビールを開けた。
しかしすぐに、誰かが「いいところがあるぞ」と知らせてくれた。
そこに行ってみて、驚いた。
「はまなす」号には、ドリームカーという車両がある。座席が大きく、リクライニングの角度も大きく、ゆったりと眠れるように配慮された車両だ。
通常は指定席車に連結されるはずのドリームカーが、どのような運用上の都合か、自由席車に連結されていた。
しかも、自由席は、指定席ほどには混雑していなかった。というより、かなりの空きがあった。自由席が指定席より空いているという現象は、よくある事で、九州でも夜行急行「かいもん」号で顕著だったが、けれども、ドリームカーが空いているという光景は、少なからず驚いた。

ドリームカーには、前夜の「なは」号と同じく、ミニロビーが付いている。そこが、「いい場所」だった。
ビールを開けている途中、車掌が通り過ぎた。「なは」号でのことがあるから、「ここで飲んで大丈夫ですか」と聞いたが、車掌はきょとんとした顔で、「結構ですよ。そのためのスペースですから」と言い、去った。

2009/08/07 (金) 立秋

暦の上ではもう秋。
けれども、蒸し暑い一日だった。九州では気温が35℃を超える猛暑日となったところが多かったらしい。

今日は仕事休み。
午前中は、部屋の掃除と片付け。そして洗濯。
正午過ぎに家を出て、クルマで日当山温泉へ。ここに、僕の行きつけの温泉がある。
料金は300円で、露天風呂やサウナもあって、いい温泉だ。
営業は13時から。僕が本日一番乗りだった。
誰もいない、広い浴場にはうっすらと湯気が立ち込め、雲の間から時々射す日光が、湯気を金色に輝かせていた。
そんな中、ひとりで湯船に漬かっていると、露天風呂への出入り口の開け放されたガラス戸から、とんぼが一匹、浴場についと入ってきた。
ぬるめの湯に身を委ねながら、どうなるかと見ていたら、浴場の天井近くをつい、つい〜と飛んでから、反対側の窓から出ていった。

先週のことだけど、金曜ロードショーで「魔女の宅急便」を放映していた。
初公開は1989年。もう20年も経つのだ。
いま改めて観てみると、いろいろ落ち込んだりもするけれど、全体的には底抜けに明るい映画だ。
あの、バブル景気真っ盛りの頃の空気が、そのまま瓶詰めにされているような。
あの頃は、映画の登場人物のひとり、画学生のウルスラのような自由人みたいな生き方も、現実にあり得たと思う。主人公のキキが身を寄せるグーチョキパン屋のような、職人が腕をふるう個人経営の店が、特別なものでなく普通のものとして、今よりたくさんあった。
僕は、バブルの時代については基本的に批判側の人間だけど、ああいう、ひとりひとりが、それぞれの特技で生きていく余地というか可能性が、今よりたくさんあった時代でもあった事は、充分評価できると思う。トンボが所属する飛行クラブの面々のように、みんなが余暇に自分の楽しみを追い求めるという事も、またひとつの生き方として脚光を浴びた時代でもあった。
バブルが崩壊してから、バブル時代の負の面だけでなく、ああいう肯定されるべき面も一緒に封印されたかのように、窮屈で息苦しい世の中になったのは残念だ。
そういえば、この映画、公開初日に、学校の補習授業が終わってから、繁華街の映画館に観に行ったなぁ。

夜になっても暑苦しさは変わらないが、あと1ヶ月もすればお盆。お盆を過ぎると、急に空が高くなって、朝晩がしのぎやすくなる。
夏も静かに、終わりの時に近づいている。

2009/08/03 (月) さよなら夜行列車(14) ワンゲルと夜行列車・9

眠れたのか眠れないのかはっきりしないまま、窓の外は明るくなってきた。
「なは」号は、岡山に向けて走っていた。窓の外には、もやのようなものが煙る田園風景が流れていた。

空は明るいのに街はまだ眠ったままの岡山を過ぎ、また山がちの風景を眺めてから、姫路に到着。
朝日を浴びた姫路城は、白鷺城の別名にふさわしく、まばゆいばかりに輝いていた。
車内放送で、姫路城についての案内もあった。

姫路から乗ってきた、ビジネスマンがいた。
その人は大阪で降りたが、在来線の新快速や、新幹線よりはゆったりとした座席の「なは」号を選んだのかもしれない。

明石海峡大橋は、朝の光が金色、銀色に踊る中で、シルエットのように見えた。
ここでも、車掌の案内放送があった。

やがて、大阪で下車。
鉄道ファンとしては、やはり終着の新大阪まで乗っていたかったのだけど、パートの行程上、仕方が無かった。

一旦改札を出て、青森までの自由席特急券を買い、またホームに戻った。

今は、昼間に大阪から日本海沿いに青森まで行こうとすると、3本の特急を乗り継いで行かなければならないけど、当時は大阪から青森まで直通する昼行特急「白鳥」号が現役だったのだ。
大阪駅の11番ホームで待つことしばし、「白鳥」号が入線してきた。

「白鳥」号は、新大阪、京都と乗客を集めて、北陸路に向けて走り出した。
そして、福井、金沢、富山と、北陸の主要都市を経由して、越後路へ。
その間にも乗客はほとんど入れ替わったけど、新潟でまたほとんどの乗客が、一斉に入れ替わり、秋田、青森方面へと走っていった。

とにかく、退屈な道中だった。
ゲームなどして退屈を紛らせたが、近くの座席のご婦人が「楽しそうだこと」と揶揄して言ったくらい、投げやりな楽しみ方だった。

窓の外は、午後に入ってからどんどん暗くなった。窓の外の海岸線に生える松の木が、大きく傾いているのに気が付いた。
冬の日本海を渡って吹き付けてくる冷たく強い風が、そうさせるのだろうか。
鈍色の混ざったオレンジ色の海面に、影絵のように映える樹の形を見て、この北東北の厳しい冬を思った。

終点、青森に着いたときは、全くの夜だった。
ドアをくぐって車外に出るとき、熱気が襲ってくるかと思ったら、冷たい風が僕たちを出迎えてくれた。
真夏なのに、外気はすっかり冷え込んで、列車内では暖房に切り替わっていたのだった。

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