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■2001/12/02 (日)
脳しゅよう手術から復活、1軍マウンドに |
1999/10/8
脳しゅよう手術から復活、1軍マウンドに プロ野球・バファローズの盛田幸妃投手
毎日新聞朝刊社会面
昨年9月、脳しゅよう手術を受けたプロ野球・大阪近鉄バファローズの盛田幸妃投手(29)が7日、藤井寺球場でのロッテ戦で、1年2カ月ぶりに1軍マウンドに立った。頭部手術を受けた日本のプロ野球選手が、第一線に復帰したのは初めて。一時は右半身がほとんど動かせず、「社会復帰できないかもと考えた」という盛田さん。「ガンバレ モリタ」の大コールがわき、「不屈の闘志・奇跡の復活! 待っていたぜ! 幸妃」の横断幕が揺れる球場で、懸命のリハビリを経てよみがえった右腕が見事に再デビューを果たした。(23面に関連記事)
盛田さんは近鉄が3点リードの六回表に登場。スタンドでは妻倫子さん(32)も観戦。声援を聞き、盛田さんは「リハビリを思い出し、胸がつまった」という。だが、マウンドでは普段どおりの落ち着いた投球を披露し、この回先頭打者を138キロのシュートで空振り三振に仕留めた。次打者に四球を与えて交代したが、「中継ぎ投手の柱」として復活をアピールした。
北海道・函館有斗高(現・函館大有斗高)から1988年、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)に入団。92年には防御率1位のタイトルを取り、以後、大魔神・佐々木主浩投手とのダブルストッパーとして活躍した。近鉄に移籍した昨年は、主に中継ぎとしてシーズン半ばまでに5勝をマーク。だが、6月に右足首にけいれんが起こって初めて病気を自覚し、8月13日に1軍登録を抹消。9月10日に14時間の手術を受けた。
盛田さんは「今シーズン中に1軍で投げるのが目標だったので、ホッとした。ただ、三振は出来すぎだ。まだ右足に違和感があって、1軍で投げるには恥ずかしいレベル。来年こそ開幕から1軍に加わり、チームの役に立ちたい」と、次の目標を語った。【山口一朗】
■写真説明1年2カ月ぶりに登板、復活を果たしてファンの声援に応える近鉄・盛田投手=藤井寺球場で7日、北村隆夫写す
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■2001/11/19 (月)
「★☆千里徘徊☆★」へのご意見集 |
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■2001/11/12 (月)
53歳現役 大阪近鉄バファローズ打撃投手(下) |
(上より続く)
1年目は中継ぎ中心に24試合に登板。だが、2年目、練習中の事故で鼻を骨折、2シーズンの大部分を治療とリハビリに費やした。1歳下の鈴木啓示・前監督(52)=現野球評論家=がエースの座をつかみ、甲子園の人気者、太田幸司さん(47)=同=がドラフト1位で入団したころだった。
プロ4年目の72年、横手投げに変えたのが転機となり、シンカーなど変化球がさえ、打たせて取る投球に磨きがかかり、73年には41試合に登板して5勝2敗。だが、その後はふるわず、通算成績5勝12敗で78年を最後に引退した。
プロ野球の打撃投手は93人いる。最年少は30歳近く若い。長く続ける秘密は、体力の維持にある。球団広報の加藤正樹さん(34)は「水谷さんの筋力は現役選手並み」と驚く。水谷さんは「子供のころ、自然の中でいろんな遊びをしたのが、今に生きているのかもしれない」と話す。
長い打撃投手生活で、悔しい思い出もある。十数年前だが、選手に求められてアドバイスをしたところ、打撃コーチと行き違いが生まれたのだ。「裏方に徹しなければなりませんでした」
うれしいのは、スランプだった選手が立ち直って試合で打ち出したり、年賀状で選手から励まされることだ。「今年もよろしくお願いします」「頑張って下さい」といった文面を見ると、「それだけで、よっしゃあ、という気になります」と言う。
今、一番落ち着くのは、近くに住む初孫の安藤拓未ちゃん(1)と過ごすとき。「孫は元気のもと。孫とキャッチボールできるぐらいまで、ユニホームを着ていたい」。おじいちゃん投手は、まだまだ“現役”だ。
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■2001/11/12 (月)
53歳現役 大阪近鉄バファローズ打撃投手(上) |
1999/10/7
[イブニングアイ]53歳まだまだ現役 大阪近鉄バファローズ打撃投手・水谷宏さん
毎日新聞夕刊政治面
大阪近鉄バファローズ・背番号「103」。水谷宏さん(戸籍姓・新垣)は53歳、プロ野球界最年長の打撃投手だ。西武の松坂大輔投手(19)のようなエースは球界の華だが、打線を支える水谷さんたちは「試合前のエース」。水谷さんが30年の球界生活を過ごした藤井寺球場での1軍公式戦は、7日夜予定のロッテ戦が最後。チームも最下位に沈み、ちょっと寂しいシーズンの幕切れだが、初孫とキャッチボールできる日を待ちながら、今日も投げ続ける。【山口一朗、写真・懸尾公治】
水谷さんの1日は試合開始の約4時間前から始まる。球場に到着するとユニホームに着替え、6人の打撃投手に2軍で調整中の投手らが加わった8人前後が交代で、試合前の打撃練習に投げる。
1投手当たり約20分間に約140球。打者が打ちやすいように力を抑えているが、球数は先発投手の交代の目安(120〜130球)より多い。投手板から本塁までは18・44メートル。球数は年間4万球を超えるから、打撃投手20年の間に投げた通算距離はざっと1万5000キロにも達し、地球の直径(約1万2000キロ)を上回る。右サイドスローの制球の良さは評価が高く、足高圭亮・近鉄球団管理部長兼編成部長は「調子を崩すと、水谷さんの球を打ちたがる選手が多い」と明かす。
本職は査定担当のスコアラー。試合前には監督に前夜の試合の分析結果を報告。試合中は1球ごとに選手のプレーをチェックし、帰宅後は翌日の報告のために資料整理する。就寝は午前2時ごろ。水谷さんは「妻=里美さん(53)=の協力なしでは絶対にこんなに続いてないですね」と語る。
水谷さんは三重県生まれ。中学時代は軟式野球部で、卒業アルバムに「プロ野球選手になりたい」という夢を記した。進学した三重高では甲子園出場を果たせなかったが、制球のよさで注目され、中日や大洋(現・横浜)から入団の誘いがあったという。その後、社会人野球の全鐘紡で主力投手の1人として活躍、1968年秋のドラフトで近鉄に1位指名され、夢を実現させた。
(下に続く)
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■2001/11/03 (土)
「大阪近鉄バファローズ」創立50周年/6(下) |
(中より続く)
89年も壮絶な戦いが続いた。開幕で近鉄は出遅れたが、独走していたオリックスが8月に失速。西武との三つどもえになった。10月12日の西武2連戦でブライアントが4打数連続アーチを放って加速、近鉄は9年ぶり3回目のリーグ優勝を達成。2位オリックス、3位西武とは順に勝率1厘差。まさに「熱パ」の主役となった。チーム新の49本塁打のブライアントは本塁打王と最優秀選手を獲得した。
セ・リーグは、藤田元司(68)=現評論家=が率いる巨人が84勝という圧倒的な強さで優勝。日本シリーズ前の予想も「巨人有利」が大半だった。ところが、近鉄が3連勝。仰木は「(前年から計)260試合、緊張の連続だったんで、気持ちに余裕がない」と初の日本一に王手をかけた感想を語った。
第3戦に先発、勝ち投手になった加藤哲郎(35)=現野球解説者=は「この程度のチームに負けていたらオリックスや西武に申し訳ない」と挑発のセリフを吐いた。これが眠っていた巨人を起こしてしまった。
第4戦は香田勲男(34)=現近鉄投手=の、78キロの山なりカーブにほんろうされて完封負け。第5戦は原辰徳(41)=現巨人コーチ=の満塁弾を浴びるなど完敗。東京ドームから藤井寺に戻った第6戦でタイに持ち込まれ、最終戦は香田に再び抑えられ、悲願の日本一になれなかった。
香田は95年、阿波野との交換トレードで近鉄に入団。移籍が決まり、近鉄の球団幹部に「あの時のピッチングを覚えていてくださったんですね」と語ったという。今、中継ぎエースとして活躍する香田は「このチームで優勝したい」と力を込める。=文中敬称略【山口一朗】(次回は10月8日掲載の予定です)
■写真説明 ロッテ―近鉄26回戦 延長十回、引き分けが決まりガックリする仰木監督(右から3人目)や権藤投手コーチ(その左、現横浜監督)ら近鉄ナイン
■写真説明 強打で近鉄を優勝に導いたブライアント=1989年10月
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■2001/11/03 (土)
「大阪近鉄バファローズ」創立50周年/6(中) |
(上より続く)
第2試合も緊迫した。先制を許した近鉄は六回に追いつく。七回、吹石徳一(46)=近鉄コーチ=の2号、真喜志康永(39)=同=の3号のソロアーチが飛び出した。めったに打たない2人の一発に、ベンチは沸き立った。だが、その裏、再び同点にされる。八回にブライアント(38)のソロ本塁打が出て、近鉄は阿波野を第1試合に続いて投入したが、その裏、ロッテは高沢秀昭(41)=現ロッテコーチ=が左翼席に同点のソロ本塁打をたたき込んだ。
当時パ・リーグには、4時間を超えると新しい回に入らないという延長戦規定があった。九回裏の二塁走者のけん制死を巡り、ロッテ側が9分間の抗議をした影響もあり、延長十回、近鉄が無得点で攻撃を終えた時には既に3時間58分を経過。十回裏、近鉄選手はロッテの選手に「早く打席に入ってくれ」と願ったが、2分以内に攻撃が終わるはずはなかった。大石第二朗(40)=現・大二郎、野球解説者=はぼうぜんと二塁の守備についた。西武球場では待ちかねたライオンズナインが胴上げを始めた。
平日の川崎球場で、ロッテ対近鉄戦で異例の3万人が入場。放映権を持っていた放送局が、ニュースの時間まで中継を続けた。当時、近鉄百貨店東京応援団長だった佐野正幸(47)=東京都八王子市=は「勝ったと思ったら負け、だめだと思うと盛り返すのが近鉄の特徴で、ファンになるとやめられなくなる魔力でもある。10・19には、それが凝縮していた」と断言する。佐野は今年5月、その日の出来事を「1988年10・19の真実」(新風舎刊)として出版した。
この日は、老舗球団・阪急ブレーブスが、経営権をオリエント・リース(現オリックス)に譲ると発表。パ・リーグにとって激動の1日となった。
(下に続く)
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■2001/11/03 (土)
「大阪近鉄バファローズ」創立50周年/6(上) |
1999/9/10
[スポーツマインド]「大阪近鉄バファローズ」創立50周年/6 「川崎」の悲劇
毎日新聞夕刊二面
1988年10月19日、川崎球場。このダブルヘッダーに連勝すれば、近鉄のリーグ優勝が決まる。だが、1試合でも引き分けると、全日程を終えた西武の勝率が上回る。どうしても、第1試合に勝たねばならなかった。
3―3の同点で九回2死二塁の勝ち越しのチャンス。投手はロッテの抑えの切り札、牛島和彦(38)=現野球解説者。三塁側のネクストバッターズボックスで控えていた加藤正樹(34)=現近鉄球団広報=は「監督はどうしたんだろう」と思案していた。
当時の規定では、ダブルヘッダーの第1試合の延長戦はなかった。加藤は「僕が打つのではなくて、梨田(昌孝・現2軍監督)さんが代打やろ」と思っていた。同年限りで引退を決めていた梨田(46)は、牛島にめっぽう強かったからだ。ところが、仰木彬監督(64)=現オリックス監督=がなかなか動かない。加藤がじりじりした気持ちで打席に向かおうとした。その時、仰木監督はようやく「代打梨田」を告げた。
「じらしをよく使うんだよね」と最近、梨田は振り返った。仰木は後に大胆なさい配を次々と的中させ、「仰木マジック」と呼ばれたが、微妙な心理戦も得意にしていた。
梨田は見事に中前打を放ち、二塁走者の鈴木貴久(35)=近鉄外野手=が、捕手のタッチをかわし生還。その裏2死満塁のピンチを左腕エースの阿波野秀幸(35)=現横浜=が切り抜け、近鉄はついに優勝に王手をかけた。
(中に続く)
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■2001/10/29 (月)
大阪近鉄バファローズ」創立50周年/5(下) |
(中より続く)
2リーグ制になった50年以来、3球団でリーグ優勝した監督は西本しかいない。だが、日本シリーズに3回以上出場した13人の監督で、西本は一人だけ「日本一」になれず“悲運の闘将”とも呼ばれる。それでも西本に悲壮感はない。「若い連中と力を合わせれば、かなりのものが出来るようになる。確信みたいなものが出来たよ」
最近の近鉄に西本は「何年間か歯がゆい思いがある」という。評論家ゆえ、どの球団に肩入れするつもりもないが、やはり近鉄には「まだ、やりようがある。オレだったらって気持ちはある」という。西本の背番号「68」は佐々木監督が引き継いでいる。
西本近鉄を支えた中で忘れてはならない外国人選手がいる。「赤鬼」の愛称があったチャーリー・マニエル(55)だ。米大リーグから76年にヤクルトに入団し、78年に球団初の日本一に貢献。79年に近鉄に移籍した。同年6月9日のロッテ戦であごに死球を受け、5時間半の手術を経て56日後の8月4日に復活した。ブランクがあったのに本塁打王を獲得、最優秀選手に選ばれ、近鉄のリーグ初優勝の原動力になった。80年にも本塁打、打点の2冠王となり、2連覇の立役者になった。マニエルは81年に再びヤクルトを経て米国に帰り、現在は米国・インディアンスのコーチとして、大リーガーを育てている。=文中敬称略【山口一朗】(次回は9月10日掲載予定)
■写真説明 リーグ初優勝を果たし夜の祝勝会で胴上げされる西本監督(正面下が佐々木・現近鉄監督、右下端が羽田・現打撃コーチ、左下端が鈴木・前監督)=大阪・日生球場で 1979年10月16日
■写真説明 あご骨折から復活直後、特殊ヘルメットで打撃練習をするマニエル=西宮球場で1979年8月
■写真説明 1979年日本シリーズ第7戦 九回裏近鉄1死満塁、石渡のスクイズが外され、三塁走者の藤瀬が挟殺される(捕手・水沼)=大阪球場で1979年11月4日
◆編集・レイアウト 小中真樹雄
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■2001/10/29 (月)
大阪近鉄バファローズ」創立50周年/5(中) |
(上より続く)
75年に初の後期優勝。西本は「この優勝はフロックだった」と笑うが、鉄拳をふるってでも鍛える「西本野球」が浸透した近鉄は79、80年に連続優勝を果たした。語り草の「江夏の21球」について、西本は「そりゃ、勝ったと思ったさ」という。79年11月4日、広島と3勝3敗で迎えた日本シリーズ第7戦。どちらが勝っても初の日本一だった。3―4の九回裏、近鉄は無死満塁の好機をつかんだ。マウンドにはリリーフエースの江夏豊(51)=現野球評論家。
「勝つための方法は四つか五つあって、監督はその一つを選ぶ」と西本。満塁になった時点で、代打の佐々木恭介・現近鉄監督(49)と石渡茂・現近鉄チーフスカウト(50)を呼び「三つのストライク、みんな振れ」と伝えた。だが、佐々木は三振。石渡はスクイズを外され、三塁走者の藤瀬史朗(46)=現近鉄球団職員=が挟殺されたうえ、石渡も三振に倒れ、広島が栄冠に輝いた。翌年も3勝3敗で迎えた第7戦、最後はやはり江夏に抑えられた。
西本は81年まで監督を務めた。公式戦最終日だった10月4日、阪急とのダブルヘッダーが終わると、西本は両チームの「教え子」たちに一緒に胴上げされ、ユニホームを脱いだ。監督通算1384勝1163敗118分け。リーグ優勝8回だった。
(下に続く)
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■2001/10/29 (月)
大阪近鉄バファローズ」創立50周年/5(上) |
1999/8/13
[スポーツマインド]「大阪近鉄バファローズ」創立50周年/5 闘将・西本幸雄監督
毎日新聞夕刊二面
1973年秋、阪急監督の西本幸雄(79)=現野球評論家=は、立教大で同級生だった中島正明・近鉄スカウト部長(故人)に「監督いらんか?」と持ちかけた。戦前、立教大野球部で西本は主将、中島はマネジャーを務めた。73年はパ・リーグが初めて前後期制となり、阪急は南海とのプレーオフに敗れた。53歳だった西本は「まだやれる」と思い唯一優勝経験のない近鉄に自分を売り込んだのだ。
「阪急には辞めるのを待たれていた感じがした。近鉄が引き受けてくれ、日生球場にあった球団事務所にあいさつに行った。梨田(昌孝・現2軍監督)や羽田(耕一・現打撃コーチ)に会ったから『お前らがおるからオレは来た』と言ったんだ」
だが、外と中では近鉄の印象は違った。「投手は鈴木(啓示・前近鉄監督)、打者は土井(正博・現西武コーチ)しかいないようなもん。今年の野村(克也・阪神監督)もおそらくそうだろうけど、一からやらなきゃならないと思った」。大毎と阪急を計6回リーグ優勝に導いた西本に、近鉄は優勝を狙う球団には、とても見えなかった。
西本と同時に投手コーチとして入団した杉浦忠(64)=元南海・ダイエー監督、現野球評論家=も「当時の近鉄は取り組み方が甘かった。ゲーム5分前にベンチ裏でうどんをすすったり、負けてもバスの中で口笛を吹いたり。西本さんはそこから手をつけた」と語る。
(中に続く)
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