ペーパーライセンスボクサーの司法試験日記

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さるさる日記

2010/03/07 (日) 今さらあらためて気付いたこと 1

バックステップをするとき、
左のパンチを出した後よりも、
右のパンチを出した後の方が、
スムースに後ろに戻れる


 

オーソドックするスタイル(右利き用)の場合、
左のパンチを出すと、
構えるときに前に踏み出している左足に、
前に出ようという力がかかる。

前に前にステップしていくなら、
その左のパンチの力を自然に利用できるからいいのだけど、

打ち終わってバックステップしようとすると、
その力に逆らわなければならない。
せっかく生じた力をわざわざ殺して、
改めて後ろ向きの推進力を作らなきゃいけない。

疲れる。
で、動きも遅くなる。

 

それに対して、右のパンチを出すとき、
後ろに置いた右足は前に力をかけているけど、
前にある左足はむしろ後ろ向きの力をかけている。
そうすることで右を前に出す腰の回転を実現する。

だから、右のパンチはその場にとどまって打つもので、
前進しながら打つのには適していない。
前進するのは左を出したとき。

バックステップはやりやすい。
回転して前に出した右半身を戻そうとする力と、
回転するために後ろ向きに踏ん張った左足の力とを、
そのまま後ろに下がるのに利用すればいい。

 
で、下がったときに後ろの右足で着地する反発力を利用すれば、
また前に出てパンチを打つこともできる。
いわゆる「出入り」というやつ。

 
ふむ。
バックステップをするのは断然右を出した後だな。

 

なんでこんな一見当たり前のことを確認しているかというと、
身体と頭がバラバラにしか働かない僕は、
今までこの理屈を考えずにいたために、
バックステップが異常に苦手だったからだ。

とにかく下がらずにガンガン前に出て、
とにかく手だけを出し続けてた。
それができるクソ体力もあった。

 
パンチを打たれたら逆に前に出るようにした。
多少もらうけど、前に出て受けるとパンチの芯を外せる。
相手を下げさせればパンチの威力も減る。

一般のイメージと違って、
実はインファイターの方がKO決着は少ない。
細かいパンチの応酬になるからだと思う。

器用なボクシングができない運動オンチな僕は、
前に出ることで、体力勝負に持ち込むことで、
なんとか困難を打破して行った。

 
結局、プロテストの合格で限界を感じてしまったけど…。

2010/03/07 (日) 今さらあらためて気付いたこと 2

そういうスタイルになった理由には、
右を出したら左も出せ、と教わってきたのもあった。

右でパンチを止めるな、と教わっていた。
ワンツーを打ったらそこでパンチを止めずに、
必ず左でコンビネーションを終えるようにしろ、と。

その教えはとても大事なことで、
「必ず左で終える」ということを習慣付けると、
体力が続く限り、体勢が崩れるまで連打することができる。
前に出ることができる。

一つのスタイルとして十分成立する。

 

ただ、少なくとも僕は、
バックステップが下手になった。

左を出した後に下がるとか、
右を出しても動きを一たん止めてから下がっていた。
体力の無駄づかい。
動きもスロー。

 
教わったことだけを一生懸命やって、
そのための体力だけを作って行って、
それ以外のことは全く見えなくなってたから。

僕はかなり単純ウスラ馬鹿なので。

 

最近、現役時代にアウトボクシングを得意としていたトレーナーに
ミットを持ってもらう機会が増えたのだけど、
バックステップの指示を受けても全然上手く行かなかった。

ただ、そのトレーナーの指示する順番でパンチを出していて、
右を出した後に戻す力で自然に、というのに気付けた。

そのトレーナーにも、
バックステップを少しほめられるようになった。

 

ボクシングは奥が深いなと思う。

 

まあ、僕が馬鹿過ぎるのも大きいんだけど。

昔はクソ体力で何とかしようとしていたんだよね。
で、「そこそこ」は何とかできてしまった。

あくまで「そこそこ」であって、
すぐ壁にぶつかってはもがくことになってしまうんだけどね。

 

連日長時間答案を書きつづける司法試験の対策の一つとして、
体力面のアップの範囲で練習しているだけ。
もちろん毎日練習というわけには行かない。
朝のロードワークもまったくしてない。

体力は昔の何分の一だろうという感じ。
体重もまだ日本で試合ができるところまで落ちていない。

その分、昔よりテクニックや頭で練習しないといけない。
昔なら立ち止まらなかったところで考えて練習する場面が出てきた。

 

せめて今見えてるものだけでも、
昔の体力に備わってたら、
結構強いボクサーになれたのかもなあ。

なかなか上手く行かない。

 

やっぱボクシングは奥が深い。

 

2010/02/27 (土) 散髪したよ

試験本番まであと2か月

 

気合入れたるんじゃあああああ!

 



 

基本、人に会わず引きこもるので、
外見はどうでもいいともいう。

ちなみに丸坊主は大学受験の浪人以来。

 

2010/02/20 (土) いのちの電話についてのニュースを見て 1

自殺関連でいくつか日記を書いたので、
ちょっと前に見た、
ある「いのちの電話」の現場のニュースについて。

僕が見たのはテレビニュースだったけど、
新聞記事にもなっていた模様。
http://www.find-j.jp/information/information-6.html
 

ニュースの趣旨は、一言でいえば、
「いのちの電話」の現場はすさまじく過酷な状況である、
ということだった。

 
・電話はひっきりなしに24時間かかってくるのに、
 電話を受けるカウンセラーを各センターで数人くらいしか
 確保できてない時間帯があったりする
 (テレビでやってたのは深夜に2人しか受け手がいない状況だった)

・基本、ボランティアなので、なかなかなり手がいない

・結果、カウンセラーの負担は異常に大きく、
 ケアを要する人への対応が不十分になってる

 

現場に人が少ないのはきついよね。

僕はカウンセリングのことはよくわからないけど、
ただ想像してみただけでも、
こういう相談って一人ひとりの相談時間は相当長いものになるはず。

生活状況や原因をつかむだけで時間がかかるだろうし、
本当に動揺している人たちばかりなんだから、
そもそも具体的に話し出すだけでも、
いろんな垣根を乗り越えて行かなければならないんじゃないかと。
そういう人がとりあえずでも落ち着くまでにも時間がかかるだろう。

相談員はそれをずっと待たなきゃいけないよね。
話を急かしたり、まして途中で打ち切ったりするのはご法度のはず。
それじゃ下手したら自殺教唆になりかねない。
せっかく出してくれたサインを踏みにじることになるんだから。
かろうじて見つけた人とのつながりが切れたら、
後は絶望しか残らない。

 
一人ひとりの電話に時間をかけなきゃいけない。
そうすると回線はずっと話し中になる。
相談員が足りないんじゃ、電話は結局受けられず、
サインは届かないまま終わることになる。

いのちの電話をプレイガイドへの
チケット予約にたとえた人がいるけど、
本当にそういう状況ぽい。

 
とにかく人が必要なはず。

もちろん誰でもいいわけじゃなくて、
本当に責任感があって、
かつ専門的な訓練を受けたプロがいる。

それも、夜中に働いてくれる人が。
人が苦しむのはやっぱり夜中の方が多いだろうから。

2010/02/20 (土) いのちの電話についてのニュースを見て 2

え〜と…、基本的なことけど…、

なんでボランティアなわけ?

必要としているのは「プロ」なんだよね?

 

少し前に、厚労省が、
自殺者を2万2千人までに
なんていうふざけた…

いや、とりあえず自殺者を1万人減らすための対策をすると、
大々的に宣言したことがあったはず。
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=68910&log=20050609

 
それって、こういう精神的なケアの部分に、
一定の予算を振り分けたりするって意味だと、
行政に素人の僕は単純に思ったわけだけど、

僕の考えはなんか間違ってたのかな?

 
あれから何年か経った。
報道を見る限り、数値的にも状況は全く改善されていない。

厚労省は何かをやったのか?

細かく調べたわけじゃないから断言はできないけど、
とりあえず僕の耳には何も入ってこないよ。

 
自殺予防に数値目標を出すなんていうある種の無神経さは、
結局のところ、まともな対策なんて何もする気のないことを、
まさに象徴していたように思えて仕方ないんだけども


 

いや、「いのちの電話」をやっているのは
「一般社団法人」だということだから、
もしかしたら、
「公の支配に属さない慈善事業等への公金支出禁止」(憲法89条)
に抵触する、みたいな感覚もあるのかな?

しかしねえ。
こういう地道な活動で実績がある団体を積極的に支援するのって、
ものすごく実効性のあることだよね。

正直、僕は憲法89条の政教分離以外の部分は、
何のためにあるかよくわからない。
何とかならんもんか。

 

民間の事業の問題に対して、
すぐ行政のせいにするのは短絡思考だ、
的な批判をする人もいて、
それも一理あるんだけど、

やっぱりこういうのって、
資力も権力もある政府が有効かつ具体的な方策をとっていかないと、
私人だけでどうにかできる問題じゃないと思うんだ。

社会全体で責任を取っていくべき問題なんだから。

無力な僕は、やはり行政の責任を問いたい。

なんでこういう過酷な現場を放置しているんだと。
なぜ現場で奮闘する人に話を聞きに来ないのかと。

 

2010/02/16 (火) 掲示板でいただいたコメントに(>ななし さん)

「自殺を押し留められたあともその人の人生は続く」
ということにあなたは思いを致したのだろうかということでした。
自殺を止めた側は止めればそれで終わりかもしれないけれど、
止められたほうは、苦しみの人生をまたそこから生き始めなければならない。
彼らの人生から苦しみの原因を取り去らなければ、
ただ単に自殺を止めることはかえって彼らにとって「悪」かもしれない。
だから
自殺はとりあえず止めとこうぜ
みたいな軽いノリの書き方が許せなかったのです。


 

僕は「他人」に対して、何度か、
「あなたには死んでほしくない」
と言ったことがあります。

メールなどネットを通じて言った場合もあり、
面と向かって言ったこともあり、です。

 
そのたびに自分の言葉に疑いを感じてました。

「自殺を押し留められたあともその人の人生は続く」
ということに、自分は責任をとれるのかって。

 
心が傷つき、前に動くことがすさまじく苦しい人。
借金のような物理的にのしかかる苦難がある人。
数年後の生存率がきわめて低い疾病を持つ人。

 
また、僕自身は現場に遭遇したことはありませんが、
すでに行為に着手してしまった人の中には、
そこで止められると後遺症が残る場合もあります。

親族の説得に応じ病院に行って一命を取り留めたら、
飲んだ毒のため内臓の機能が限界まで低下して、
異常に厳しい食事制限が一生続くことになった人もいました。

 
そういう人たちに向かって、
「先を見ろよ」「希望を持って生きろよ」
とはとても言えません。

「とりあえず」としか言いようがありません。

行為を止めるのに、先のことなんか計算できません。

 

「自殺は悪である」ということを示す「理屈」の一つに、
将来の自分に対する殺人である
というものがあります。

今の自分と将来の自分とを別の人格ととらえるんですね。
許されないのは他人を害する行為だけだとしても、
実は自分も他人なんだよ、と。

理屈としては正直とても怪しい。
詭弁の雰囲気すら漂う。

でも、何となく僕は、
否定したくない理屈だと思っています。

 

2010/02/15 (月) ななし さんへの返信

掲示板で
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=68910&log=20100209
に対していただいた反応

 
>自殺についての「思考実験」ね。
あなたの私に対する返信コメントにある「人間性を無視した状態」とは
まさにあのような低俗な言葉遊びのことをこそ言うのではないかと私は思いますね。
自殺を考えて苦しむ人たちの「人間性を無視した」言葉遊び。
「実験」と称した、内心の勝手な決めつけ。
あんなものを平気で書けるあなたのような人が
よくぞまあ「人間性を無視した状態」について
たいそうなご高説を垂れられたものです。


 

多分、この指摘は正しいです。

 
あそこで僕が書きたかったのは、

「理屈の上だけで“も”自殺は止めるべきものだ」

ということを導き出すための理由なので。

感情をあえて無視した書き方をしています。

感情の部分では、当然のことながら
もっと単純な結論しかありません。

 
しかし、理屈の上では、
人があえて死を選ぶことさえも尊重すべきという意見があり、
それに対して根本的に反論することはむつかしいんですよ。

まして、実際に僕らと違う世界に旅立ってしまった人に、
理屈も感情も届かないでしょう?

その結果、今この世の中にある自殺否定論は、
煎じ詰めれば、どれも、
社会(他人)にとって迷惑だから自殺は非
ってことしか言ってません。

 
でもそれは僕は嫌なんですね。

「逝きたい」と思い実際に行動に移そうとする人が、
同時に、強烈に「生きたい」って願っているのを、
僕はそれなりに見てきたので。

 
意思を尊重するなら自殺は否定できなくて、
自殺を否定するためには他人や社会の理由でないといけない、
なんて状態は、僕は嘘だと思っています。

意思を尊重すればこそ、
死を選ぶことを認めるのは間違いだと考えています。

だって、死んでほしくねえもん。

 
「高説」かもしれません。

「今は」安全なところから話しているに過ぎないのは
おそらく間違いないです。

本当に「死以外見えなくなった状態」を知ったわけでも、
本当に愛する人を失い嫌でも納得せざるを得なくなくなったわけでも、
ない状態で僕は話していますから。

 
でも、平気で書いたわけではないです。

 

2010/02/11 (木) 掲示板にいただいたコメントに(>みつかんさん) 1

以下は、前日の日記
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=68910&log=20100210
に対して掲示板でいただいたコメントへのお返事です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

みつかん さん、お久しぶりです。

 
いつもどおり思うところを書いたら、
つい茶道に対する挑戦的な文章になってしまい、
経験された方やその世界を愛する方に対しては、
礼を失する文章になってしまったなと思います。

不愉快になられたら申し訳ありません。

 
ただ、言い訳というわけでもないんですが、
僕がある種のクレームをつけているのは間違いないとしても、
その真意をなるべく誤解なく受け取ってもらいたいなとは思います。

ちょっと補足させてくださいね。

 

(みつかん さん)
礼儀の美しさを皆で目指している世界なので、
ちょっと「強制」という感覚とは違う


 
それはとても感じます。

 
僕自身は茶道をまったくたしなみませんが、
僕の亡き祖母が裏千家の師範?か何かの免状を持ってたり、
僕の周囲には茶道をする人がそれなりにいたりします。

そういう人から話を聞いたりしますし、
昨日のNHK趣味悠々「茶道」も、
「拝見」には文句を言いつつ、最後まで見てました。
あと、一昨日かに、茶人古田織部の特集をテレビで見ました。

そういう人づての印象でしかありませんが、
茶道というのは、その作法一つ一つに
「美」や「もてなしの心」に通じる理由があって、
おそらくとても合理的な完成された世界なんだろうなと、
僕なりに想像しています。

 
あの場で「拝見」と言った人にしても、
別に強制の気持ちでその表現を使ったのではなく、
おそらくは、自分が招かれたときを思い出しながら、
「自分ならこうする」という意味で、
あえて謙譲語を用いた、
という感じなんだと思います。

2010/02/11 (木) 掲示板にいただいたコメントに(>みつかんさん) 2

逆説的ですが、
僕はだからこそあえて、

「人格を塗りつぶしたいのですか?」

と問うた意味もあります。

 
「人格を塗りつぶしたいのですか?
 (いえ、そうではないでしょう?)」

という反語表現の意味も込めていました。

 

人格を塗りつぶしたくなくとも、
結果的に塗りつぶすかのような言葉になっていますよ、と。

あえて「道」という表現で文句を言ったのは、
この下の日記にもあるとおり、
「道」という形をとったときに、
人はえてして無神経になりやすいからです。

 

それが一番妥当かどうかはわかりませんが、

もし僕がああいう風に作法を伝達しようと思えば、

 
「茶室に入ったら、
 まず床の間の掛け軸をご覧になってください

 そこにはその日の茶会のテーマが掲げられています。

 招いてくれた主人の心構えが表示されていますから、
 謹んで拝見する、という気持ちで見ましょう」

 
という風に、
意味を分けて説明したいと思います。

含んでいる意味はどうあれ、
テレビの出演者が視聴者に向かって
「拝見しなさい」
と言うのはやはり不自然だと思うからです。

 
茶道そのものが嫌い、
または武道を含めた「道」とつくものが、
一般的に嫌い、というわけではないと、
とりあえず補足させていただければと。

 

2010/02/11 (木) 掲示板にいただいたコメントに(>ななしさん) 1

(ななしさん)
日本の武道は礼に始まり礼に終わるとよく言われますが、
これも相手への敬意をルールとして押し付けているわけですから、
人間の内心の人格的態度まで塗りつぶす
「道」ということになるのですね。


 
「礼に始まり」というのは、
たとえば試合や練習を開始する前後に、
まず礼をする、といった慣習が典型じゃないかと思います。

そういうのはボクシングにもありますよ。
練習や試合を開始するときに対戦相手とグローブを合わせますし、
試合が最終ラウンドになったら、やはりグローブを合わせてから、
最後のラウンドの試合をはじめます。

まあ、武道のような強制ではないので、
時々あいさつを無視して殴りかかる奴もいて、
ボクシングではそれも責められることはないですが。

なんにせよ、強制の度合いに差がありますが、
一応「あいさつ」が半ばルール化されています。

 

そういう外形的な行為のルール化までは、
僕は問題だとはとくに感じません。

 

理想を言えば、
そういう外形的な儀礼行為だって
人に言われたからやるのではなく、
自分から積極的に対戦相手等に敬意を表して、
あいさつを求めていくべきだとは思います。

 
ただ、それだと各自が自分ルールで動く面倒などもありえますし、
礼のフォーマットを作っておくことにも合理性を感じます。

僕は法を学んでいる人間ですし、
形式的なルール作りをいつも否定するわけではありません。

 

ただ、そういえる理由の一つには、
その儀礼行為が外形的なものに過ぎないから、
という側面が確実にあります。

たとえば、最高裁は、
音楽教師の君が代ピアノ伴奏をして、
「音楽教師が行事の際に国歌の伴奏をするのは普通のことなので、
 それは一定の信条を表明することを意味する行為ではなく、
 君が代の伴奏を職務命令で義務付けても憲法19条違反はない」

と判断しました。

国歌の伴奏が信条表明に至ってないかはともかく、
ルール化して何かをやらせようというときに、
それが外形的な規定にとどまるのか、内心に踏み込むものなのか、
そこに大きな差があるのは確かだと思うのですよ。

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