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■2006/03/11 (土)
退院しました(2) |
手術の傷自体の治りは早く、ちびに逢いたくて手術の三十五時間後には車椅子に乗っていました。ただPHIの影響が抜けず、しばらくは安静に生活することを条件に退院しています。アルドメッドを服用しつつなので上150下100を超えたら、あるいは目がちかちかしたり,頭痛がしたり、吐き気がしたら主治医に連絡するようにいわれているものの実は簡単に上188など記録したりはしています。病院に戻るのはどうしても嫌なので主治医にはいまは内緒(笑)。昨日は血圧が下がりすぎて貧血を起こすしで、もはや自分の体調ながらわけわかめ。ただし脳の血管はたぶん切れてないし(笑)、痙攣も起きなかった。
手術後二日目に量った体重から十二日の間に十キロも体重が落ちましたが、それはほとんどすべて水分でした。入院中のマイブームは蓄尿中。六時間で四キロも体重が落ちる日もあって、救急車で運ばれた日は六時間の間に四キロ増え、水分を排出できなくなると一日で未曾有の変動があることもわかりました。ホメオスタシスってすごいぜ。いったんバランスが崩壊するとこういうことになる。
産後であるためもあってかどうかすると眩しくて目がうまく使えません。一応、血圧が高かったため眼科で眼底、眼圧の検査を受けたところ、こちらは大丈夫でした。ただなぜか肺に二箇所ほど影がある。こちらは結果まち。癌ではないらしいので、まあ、赤ん坊のとき結核患者に抱っこされたらしく、その直後に陽転しているので結核菌の石灰化の痕ではないかと勝手に推測中。ともかくも自宅安静が必要なしばらくの間はパソコンもあまり使えない状態ですが、数日に一度はメールのチェックはできます。また電話で話すことはできます。早期の対応が必要な場合はメールや電話での連絡はケータイ宛てにご連絡ください。
他者の感情については体感することはできない。愛することはできても愛し合うのではなく、片思いと片思いで向き合っているのだと思ってきました。いまは心から信頼して奥底を打ちあける、というかほとんどぶつけるだけだけれども(笑)、そのようなことのできるひとと暮らしているので、どうか心配しないでください。しばらくはふたりでこはんを食べ、笑いあい、静かに抱きしめられ、気分のいい日は目の前にある公園を歩いて暮らしていきます。もちろんわたしが片割れではかなり下世話でもあり「阿弥陀堂だより」にはほど遠い。その点もご安心ください。ありがとう。
PHIによりからだがもはや持ちきれず緊急手術になりました。夫が一、二時間寝ようとしては真夜中一時間ほど離れた病院にタクシーで駆けつける日々だったので固定電話はNICUからのもののみに限りたく、メールも含め何の対応もできない状態であったためケータイでアップした文章でしたが、ケータイからだと機能が限られ文字数が確認できなかったこともあり、かえってご心配をおかけしました。
この半年ほど精神はこの上なく幸福でした。体調は必ずしもいいとはいえず、さりながらわたしがトイレに頻回起き出すときには起きない夫がわずかでも腹痛でうめけば起きてくれるほど気遣われ、これほど大切にされたことはありませんでした。彼は前世はきっと看護師か、わたしの母であったに違いない。あるいはわたしは姫で彼は侍者か(笑)。そのくらいに気配の変化に敏感なひとで本当に扱いはもったいないくらい大切に大切にされています。わたしは相も変わらずわがまま放題だけれどね。
三日天下のごとく数日の間、母親でいられたことがありがたかった。病を抱え一五〇〇グラムに満たないちびは、肺はもちろん気管が未発達で、生まれたら即死するのではないかと思って手術にはしばらく抵抗していました。それなのに泣いてくれ、泣けば命に関わるため鎮静剤を打たれ、ちびはそれでも心拍が止まっても呼べば戻ってきてくれ、あるいは足でわたしの掌を押して命がけで応えてくれました。強心剤も輸血もマックスまで使い、輸液はもれ、親のエゴでこの世にとどめようとすることが申し訳ないほどで、それでも生きていてほしく。ただ悲しみは深くはあっても不幸ではない。ありがたくてありがたくて幸福と深い悲しみが同時にあることもあることがわかりました。
医療スタッフも最善を尽くそうとしてくれていたことがこまやかに伝わりました。わたしも泣いては血圧が上がり、ちびに逢うことも火葬場に行くこともできなくなるため精神を保つことに腐心していたことが伝わったのか、かわるがわる訪れる看護師さんたちにやさしく扱われ、ひとりで抱え込まないでと抱きしめられたこともありました。手術寸前、産科の医師と長時間の押し問答になっても嫌な顔一つせず暖かく丁寧に説明を続けてくれ、昼の二時に行っても夜の二時に行っても救命のため精一杯努めてくれていたNICUの医師もいて、担当の看護師さんにはちびの棺にピンガちゃんを入れてもらい、どんなにか。
というわけで。
申し訳ありませんが、いま携帯電話のメール以外メールも読めないし電話も受けることができません。一月二十四日以来身動きできず、いつまでともいえない。わたしはだいぶ動けるようになりましたが、外に出ることはできない。
仮にIP電話を知っている人は申し訳ないけれど、どうかかけないでください。二、三時間眠りかけては隣県の病院から電話がかかり駆け付けるような日々のため、夫も何時に寝ているかわからないので。よんどころのない事情でかけるならどうかわたしのケータイに。どうせこの上なく優しい看護士さんたちが一、二時間ごとに様子を見てくれているので目は醒ましている。ただし用件のみ。一切の事情はいま聞かないで。説明のたびに血圧が180〜200まではねあがるのでちょっとまずく親も遠ざけている。まあ、殺したいならいまかけろともいえる(笑)。しかし、わたしはいま死んでもほとんど悔いはなく感謝しそうだぜ、べいべ。
救急車の中でさえ夫と冗談まじりで話をしていた。そんなはずはないから、と最後まで楽観視していた。
一月の終わりから夢見ていたことがほんの数日ですべて消え去っていった。わたしに残されたのは呼ぶたびに命懸けで戻ろうとするものの力だけだった。かみさまかみさま。
血圧はときおり198まではねあがり、それでも繋がれていた麻酔や点滴やカテーテルは日に日に外されていく。いまわたしは放心しており、ときおり夫に理不尽な駄々をこねている。
たかをくくっていた。多少の痛みは続いていたというのもあるが、元々未曾有の体調は続いており、半年の間ちょっとした変化など当たり前のように起こっていた。
普通は当たり前のように心臓は動き、体内の水分量は一定に保たれている。ほんの数時間で体重が四キロも増え、ほんの一週間前まではマイナスであった蛋白が大量に出ているなんて自覚はさらさらなかった。
気づいたら地域の機関病院であるはずの病院から中村日赤へ。そこでわたしならいますぐ手術しますが、いまは受け入れられないといわれ、近県の病院にミラーが出ていますという苛立った声とともに送り出された。
大分に住む男の両親に会い、ときに電話で話し、手紙やお菓子やちょっとした本など送りあううちにわかってきたことがある。わたしはからだの機能を少しずつ制限されて田舎に住む老いた人全般をどこか哀れだと思いにかられていたのだ。その傲慢さたるや。生きやすいように有機的なつながりのできた住まいから引き離すのが幸せかといえば、そんなことはない。幸せのありようは年代に関わらずひとそれぞれに違っており、距離の取り方も違うのだ。孤児を哀れだという大人がいるからという「孤児根性」について省みた川端康成の言葉を思い出す。他者が哀れみ、本人が哀れむから、そのような見方に縛られる。
母の悲鳴に似た言葉を聞くたびに膨大な請求書をつきつけられたような気持ちになるのは、わたし自身が親離れしていないということだ。父が昔は台風のときに屋根に上る老人なんかいなかった、あれは老人たちが遺棄されているからだというたびに身を縮めるのは、どこか違っていた。亡くなった弟を取り戻してほしい、身代わりになってほしいという声を聞くのは、わたしの勝手に過ぎない。孤独については誰かが背負うことで簡単に解決するものではない。それぞれの関係性の中で引き受けたり選択してきたものでもある。わたしの心は大きくゆらぐたびたまたま大分の男の両親から電話がかかってくる。無邪気かつ真っ直ぐな会話をしては均衡を取り戻し、あたりを清められる思いになるのだった。
五年前、大動脈解離の手術の際に一歳だったゆきちゃんももうすぐ小学生。他愛ないようで大人の会話はさりげなく聞いている。母が以前、間違えて薬を二倍ほど飲んで倒れたという話を記憶していたらしい。葛根湯の入ったゆるやかな風邪薬を大目に飲んでもいいかしらと話している妹と母に一度倒れたのを忘れたのかと慌てて止めたりもする。医師の説明の時には静かに聞いており、体調がはっきりしないまま帰省してきたわたしの様子を気遣ってはやさしい仕草を見せたりもするのだった。
母も来年は七十歳。父を医大に任せた安心でそれぞれに疲れて唐津へと向かう列車に乗り込んだ。
母と妹とゆきちゃんとともに医大近くのビジネスホテルに宿泊。翌日、再び父の顔を見に出かけた。夏からすれば六キロ減。五十キロになってむくみはとれている。六キロもの水分に内蔵を含めた全身が圧迫されていれば、それはつらかったろう。味覚までおかしくなれば食欲もなくなるというものだ。ここ半年以上、少量のおかゆとおかずしか取れなかった父は医大に入院する間に味覚が戻り、一日2000キロカロリーの食事が取れるようになった。それでも体重が減るのだから排出できた水分は六キロ以上か。
ホームドクターは観察者にすぎなかったろうか。この4000という数値が6000になれば心臓移植のレベルですねといったそうだ。循環器内科を経た医師ではないのだから、しかたないか。両親は文句を言いながらも簡単にホームドクターを代えようとはしない。日ごろ医師と何のつきあいもないわたしが関与していいかは、この際、別のこと。日赤や医大の手を離れた後は、緊急措置として循環器内科出身のホームドクターに代わるよう介入した。この医師なら日赤の医師とも医大の医師ともつながりがある。
医大までの道のりは遠い。一日は三社参りだから次の見舞いは二日の方がいいのではないかという両親に異論を唱えた。
「大分のおとうさんはね。仏壇にお菓子を供えてお参りしようとすると生きているものの方が大事じゃ。早く甘いものが食べたーいとおっしゃるのよ。神様はきっと大らかだろうから、おとうさん参りが先ということで」
それもそうだなと父がおかしそうにする。
いつも抑制気味で我慢しているようなところのある父には、男の大分の父親のストレートな物言いが楽しいようだ。
「甘いものが大好きなひとでね。ケーキ屋さんに入ってこのお店で一番甘いケーキをくださいって大きな声でおっしゃるそうよ」などというような話をすると大きな声で笑う。
「電話をくださるとね。のりこさーん。わしはあんたに会いたーいって、もう本当に真っ直ぐでね。わたしもおとうさんたちに会いたーいっていっちゃうの」
まるまるつやつやとして子どもみたいな大分のおとうさんとものやわらかで小説や詩が好きなおかあさんがふたりで仲良く暮らしている姿を浮かべて、いつのまにか懐かしいひとたちの住む桃源郷について語る口調になっていく。それで父も母も大分に行きたい行きたいというのかもしれない。動けないいまはそれが夢になっている。
大動脈瘤の部位は脳などに向かう三本の血管の分岐点に当たる。心不全の三つの要因を取り除く手術のうちこれが一番難易度が高い。この部位を手術している間、低体温で心臓および全身を保つわけだが、心臓がこれに耐えうる状態であるかが問題である。心臓の大動脈弁の硬化については弁を取り替える手術は難易度としては低い。こちらもやはり体力的なものが問題となる。
一番簡単な手術かつ今回試みる必要性が高いのが、最後に挙げた冠状動脈の狭窄を広げる内科的な措置ということになる。心カテーテルによるもの。右上腕の動脈から細い管を通し、狭窄した部位まで届いたらバルーンで冠状動脈を広げる。その後、狭窄が戻らないようステントを装着。ステントとは網状の筒のようなものだ。
問題は動脈硬化だ。MRI画像からは石灰化した血管の壁が見えている。それから、中央の冠状動脈に問題がある以上、命綱である右の冠状動脈をバルーンで広げているときに問題が起こらないかどうか。しかし、命綱であるからこそ右の冠状動脈の狭窄は梗塞が起これば即、死につながる。リスクは取り除いておかなければならないということになる。
実際のところこれは侵襲の少ない措置だ。医師の判断としても家族の判断としてもこれだけはぜひにということになった。大動脈解離の際に執刀していただいた医師が主治医ということもあって不思議なほど父も家族も心から信頼もしている。すでに年末ということもあり、担当医は心臓内科に変わって手術は年明けにという運びになった。
「そうなんです。ですから勝手に処方をいじったり服用しなかったりというのは困ります。服用していない場合は教えていただかないと効果が出ていないと勘違いして薬を変えたり量を増やすことになる」
「わかりました」
「この他に心臓弁が硬化しています。このため心筋以外の要素でも血液を拍出する力が弱っています。これについては手術という対処法もあるのですが、数年前、大動脈解離の際に一部動脈を人工のものに差し替えていますから、その部分が癒着している可能性があります。年齢と体力も考え合わせると手術は危険ということになります。このあたりの判断は外科にお任せしたいのですが……このまま利尿剤を使いながら体調を整えていくうちに状態が良くなるということもありますしね」
そこで、外科的な判断を仰ぐため医大の心臓外科に検査入院することになった。十二月十三日は外来のはずだったのだが、唐津からタクシーでようよう着いた父の様子を見てこのまま入院しましょう、ということになった。入院すると父は顔色が良くなり歩けるようになる。
心臓カテーテルなどを含めた複数の検査により二十日にはほぼ方針は決まっていたが、家族全員が揃ってから詳細を説明するということになった。日赤から戻って一、二キロばかり浮腫の戻っていた父はすっかり引き締まり、夏から比べると六キロも体重が落ち、医大の中をかなり歩き回れるようになっていた。
二十七日に九州の土を踏む。医大で父母と妹、ゆきちゃんも揃って、説明を聞く。心カテーテルの際の映像にMRIの心臓の輪切り写真つき。とてもわかりやすい。
慢性心不全の急性憎悪の要因は主に三つだ。まずは大動脈瘤。前回五年ほど前に切除し、人工血管に取り替えられた大動脈の上の部分、脳などに血管が分岐している本来2.6センチほどの太さであるべき箇所が6センチほどの太さになっている。次は心臓の大動脈弁の硬化。このことによって全身に運ばれるべき血液の逆流が起こっている。最後の一つは冠状動脈の狭窄である。冠状動脈とは大まかにいえば心臓の筋肉に血液を運ぶ三本の動脈なのだが、このうちの一番重要な中央の動脈が十年ほど前の心筋梗塞で駄目になっている。この血管についてはバルーンで狭窄部を広げてもらった経験がある。問題は右の冠状動脈でここは自然に伸びて中央の冠状動脈を助けるバイパスを作っている。この一部が99%狭窄しているのだった。
慢性心不全の急性憎悪と医師には聞かされた。十一月、日赤に入院した父は一日で二キロも水を出し、浮腫はかなり治まった。十日の入院で三キロ。これだけの水がたまるうちに父は味覚がおかしくなった。あんなに甘いもの好きだったのに夏以来チョコレートどころかにんじんもかぼちゃもたまねぎすら受け付けなくなっていた。ほとんど寝たり起きたりで外に出ることもできない。三百メートルほどの道のりも歩けないどころか起き上がるのもままならなくなったのだ。入院で息をつけたのがよくて再び病院内なら歩けるようになり、すっきりした顔になった。利尿剤の服用の仕方が間違っていたらしいことがわかった。毎日飲まなければならない薬を三日に一度と処方されていたというのだ。父も薬を飲みたがらない。一切飲まなくなった時期もあってホームドクターも手を焼いていた。
「今回の病名は」と医師は目をあげた。
「陳旧制心筋梗塞による慢性心不全の急性憎悪」
「ちんきゅうせい?」
「ああ、以前、倒れたときの心筋梗塞ですね。こういう字を書きます」
「ああ、はい」
「そのせいで心筋が三分の一ほど死んでいるわけです」
「それでよく心臓が破れませんねえ」と父がいう。
「ほら、たとえばここの皮膚」と医師はにっこり笑って自分の口元を示す。
「ここ僕は小さいころ転んで怪我をしましてね。そのせいでここだけ髭が生えないんですね。組織としては髭が生えるという機能を伝えることはできなくなりましたが、皮膚自体はあるでしょう。まあ、心筋が死ぬというのもそういうことですね」
「そういうことですか」と父がうなずく。
「心筋としての機能を果たさない筋肉があるため他の筋肉が補っているとはいうものの拍出量が落ちます。そうすると水がたまる。そこで利尿剤が必要になるわけです。浮腫にならないためには常にほんの少し脱水状態である必要があります。ただし、これは腎臓にはよくない。ですから、軽い脱水状態を続けていくわけです」
「その軽い脱水状態を保つための、いわばこの薬のカクテルは微妙なバランスで処方されているということですね」
心得た笑顔で医師がわたしを見る。
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