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■2002/03/05 (火)
イスラームの誤解を招いた有名フレーズ 2 |
「目には目を、歯には歯を」p.48-49参照
まずは、ユダヤ教の旧約聖書にも同様のことが記述されてる。そして、スラームのシャリーア(イスラーム法)では、「目には・・・」は、被害者やその親族の権利と定められている。さらに大切なことは、シャリーア自身がこの「同害報復」の権利をあまり行使しないようにとしていることであろう。そして、被害者側がこの権利を放棄すると、加害者側には「血の代償」=賠償金を支払うべき義務がある。つまりは、同害報復を行うよりも、賠償金での平和的解決をシャリーアは求めているといえるのではないだろうか。
また、上記の本で読んだのではないが、この考え方は、イスラーム発祥以前の部族社会での過剰な報復を防ぐことも目的としていたというのを他の本で読んだ。つまり、A部族の誰かがB部族に殺されれば、B部族を殲滅してしまうまでの報復行為があり、それをそこまではやらせずに、同じレベルの害を与えるまでにおさえる考え方ということだった。
どうだろうか。学校で不用意に教わったこの二つのフレーズ。そして、このフレーズは、我々日本人のイスラームに対する捉え方の基本になっていないだろうか。そして、学校だけでなく、メディアでも見聞きするフレーズだ。
学校では、イスラームの扱いが不用意すぎるような気がする。教育という非常に重要なことに携わるのであれば、せめて、巷で売っている基本的なイスラーム解説本ぐらいは読んで欲しいものだ。
それだけでなく、これだけイスラームというものの存在感が大きくなっている昨今、個人であっても、国際社会と接点を持つ人は、イスラームに関する、この基本的かつ重大な誤解を生んでいるフレーズについては、しっかりと考え直す必要があると思う。
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■2002/03/05 (火)
イスラームの誤解を招いた有名フレーズ 1 |
「目には目を、歯に歯を」「右手にコーラン、左手に剣」(「コーランか、剣か」)。あまりにも有名なフレーズである。私の記憶に残っている範囲では、高校の世界史の授業のときに聞いた。「目には・・・」の方は、中学の時、ハンムラビ法典のところで聞いたかもしれない。
これらのフレーズは、イスラームが「怖い」宗教であると錯覚させている。私が高校の授業で聞いたとき、これらのフレーズを言われただけで、その背景にあることは教わらなかった。「現代人」の基準で見てしまうと、なんて野蛮な、と思っても仕方がない。
しかし、これらの言葉の背景にあることを知れば納得がいく。岡倉徹志、「イスラム世界のこれが常識 政治・宗教・民族55の鍵」、PHP出版、2001年という本を参考に考えてみる。
「右手にコーラン、左手に剣」(「コーランか、剣か」)p.37-38参照
コーランの第2章には、「宗教には無理強いということが禁もつ。既にして正しい道と迷妄とははっきりと区別された」、16章には「主の道に人々を喚べよ、叡智と良き忠告とをもって。(頑固に反対する)人々には、最善の方法で議論しかけてみるが良い」とある。p.38では、「異教徒を剣で脅し改宗を図ることはなかったのです。いすらむの征服下で改宗せず、自分たちの親交を守ることを選んだユダヤ教徒やキリスト教徒は人頭税(ジズヤ)を支払えばそのまま暮らしを続けることができたのです。」と解説している。上記の本では、このフレーズの発祥については、イスラームが勢力を伸ばしたときに、キリスト教徒側がこのフレーズを使って宣伝をしたと指摘している。
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■2001/12/24 (月)
宗教の共存 −街角の風景から− |
今日、新交通システムLRT(Light Railway Transit)のMasjid Jamed駅に降りた。改札横にはクリスマスツリーが綺麗に飾ってあった。そして、そのツリーのすぐ上に断食明けの祭(ハリ・ラヤ・プアサ)の飾りがしてあった。マレー系の人は緑を好み、ハリ・ラヤの飾りも緑系の色が多い。ツリーも緑なので、とてもマッチしていた。(ハリ・ラヤの飾りの写真はどこかで撮って来て、HPに掲載します。多分。)
マレーシアでは、あまり数は多くないキリスト教。でも、25日クリスマスは、国民の休日になっている。
この頃は、ムスリムであるマレー系の人々も、宗教的な意味合いではなくて、パーティやちょっと特別な食事などをしてクリスマスを楽しんでいることもあるようだ。
ツリーとハリラヤの飾りのマッチにマレーシアの宗教の共存の形を感じたような気がする。
今日の昼は、近所のホーカー(屋台に屋根がついたような場所)でチキンライスを食べた。もやしで有名なペラ州イポーのチキンライスと銘打っている。なかなか美味しい。
それではちょっと少なかったので、ヨン・トウ・フーという、なんと説明しようか、うーん、豆腐の揚げ物や練り物を茹でた食べ物をターパオ(テイク・アウト)してきた。
帰り道、家の前にでている新聞スタンドでマレー語の新聞を買った。すると、店主のインド系のオヤジが話し掛けてくる。
「おまえはマレー語が読めるのか?うちのカミさんが、よくマレー語の新聞を買っていく日本人らしい人がいるけど、そんな日本人いるのか、と言っててね。」
マレー語の新聞はだいたい毎日読んでいるといったらば、「それはすごいね。マレーシアにいるならマレー語が話せると違うからな。ほれ、いつものBerita Harianだ。」
オヤジは私の買う新聞を覚えてくれていたらしい。マレー語の新聞を読む日本人が珍しいのだろう。
その後、オヤジは満面の笑みでバイと言ってくれた。
マレー語ができるとマレーシアの人はすぐに壁と取っ払ってくれる。そもそも人なつっこい人が多いけども、壁の取っ払い具合が違う気がする。
明日は大学時代の恩師から頼まれて国立言語文芸院(Dewan Bahasa dan Pustaka:DBP)に本を探しに行く。しばらくぶりに行くから、なんだか楽しみだ。
なんのことは無い日曜日だけども、そんなことが幸せに感じた日。
今日は、やわらかネタ。
マレーシア(マレー系?)でもっとも人気のある歌手、シティ・ヌルハリザがTV1のニュースに出ていた。とっても疲れていたのか、顔色が悪い。ラマダン中でもけっこう仕事があるんじゃないか。
ラマダン中は、歌手は総じて仕事を減らすらしい。同じニュースの違うコーナーでラマダン・ソングのキャンペーンの報道があった。その中でマレー系の人気アーティストがインタビューされているのを見たが、皆そんなことを言っていた。ラマダン中は、心を静かにする時期だから、ということだ。そんな時期であっても引き受ける仕事は、孤児を励ますためのイベントであったりというものが中心であるらしい。
シティは、普段のときでもひっぱりダコだから、ラマダン中でも雑誌や新聞、テレビのインタビューといった比較的体力の使わない仕事だけでも相当入ってくるんだろう。
腹も減って、顔色が悪くても、笑顔を絶やさず、しかも、来年リリースされる新曲の一節をインタビューの最後で歌っていた。相変わらず、上手だ。
テレビネタでおまけ。
こちらも、TV1でマレー系美人の人が「いちおう」スカーフをかぶって(というよりはのっけて)、「お祈りは大切だからうんぬん」と言っていた。こういうイスラームもあるのである。TV1は日本でいえばNHKだ。マレー語の国営放送だ。そこでOKなのである。かなり綺麗に化粧をしていた。スカーフが逆にファッションの一部だ。けっこうなことではないか。見た目も綺麗にして、しっかりイスラームも実践する。「怖い」イスラームとは縁遠い世界だ。
シティもよくメディアでイスラームの教えについて言及している。彼女は普段かぶりものをしてメディアにはでないが、精神のよりどころとしてイスラームを実践していこう、そういう気持ちが大切なのではないか。
自分は、ムスリムでないから、勝手なこと言っている。しかし、信仰とはそもそも個人の内面的なことと大きな関わりがある。その信仰のスタイルにはさまざまな形があるはずだ。イスラームでも何教でも、宗教的権威機関がいうことに、正統性があれば「現実的に」従う必要がある。そして、一定の正統といわれる派が存在する。そういった制約はあるが(制約ではないかもしれない)、その枠内で個々人がそれぞれの考え方で信仰する。見た目をいくら「それっぽく」しても、精神がついていなければ、と思う。
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■2001/12/08 (土)
講演を通じてイスラームを考える |
弁護士会、人権委員会、Sisters in Islam(SIS)(ホームページ:英語)共催の講演を聞きに行った。話題は1.9月11日の米国多発テロ事件とその後、2.マレーシアにおけるイスラームというものであった。
1については、正直、あまり・・・という内容だった。興味を引いたのは、在マレーシア米国大使館、カナダ大使館、イギリス大使館からの代表がプレゼンテーションであった。プレゼンの内容自体は、政府の立場の説明であったが、質疑では、アメリカに対しては厳しい疑問が寄せられた。「華人系女性」が「米国のアフガン攻撃により、イスラーム=テロであったり、中近東の人を見ればテロリスト、という概念を作り出した」とかエスニックグループ不明の年配の女性からは「米国のテロリストのロングリストには、なぜユダヤ人が含まれていないのか」という質問が飛んだ。前者の質問は、華人系の人がしたというのが興味深かった。
2の話題は、学者、法律家、SISのメンバー4名が討議し、SISのExecutive DirectorのZainah Anwar女史(主著:Zainah Anwar Islamic Revivalism in Malaysia: Dakwah among the atudents 1987 Pelanduk Publications)が議長をつとめた。こちらは、予定の2時間半を越し、3時間程度の討議が行われた。
この中で興味深かったのは、イスラーム国家(Islamic State Islamic Country)といっても、その内実は多様である、という指摘だった。米国同時多発テロ事件後、Islamicという言葉をあちこちで見聞きするが、何を持ってIslamicなのだろうか?時の政治権力者によって、宗教が政治化(Politisized Religion)される。宗教は、正統性の源泉として利用され、「基本的に」権力者にその権限は独占(monopolize)される。その権力者の言説(discourse competing debate)の分だけ「イスラーム国家」なるもの(‘so-called’ Islamic state)が存在する。
冒頭にリンクしたSISのHPはぜひ見て欲しい。こういう考えの「イスラーム」を「怖く」感じるだろうか?
この議論は、直接、米国同時多発テロ事件についてのものではなかったが、最近のイスラームをめぐる言説の危うさを指摘しているようにも思えた。
また、この講演では、マレーシアの知識人層の雰囲気を感じるいい機会になった。高いレベルかつ広い視点で考えている人物が多かった。
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■2001/12/06 (木)
マルチ・エスニック社会を楽しむ秘訣 |
今日、知り合いのタクシーの運転の車に乗った。社中、マレーシアを楽しむには、カメレオンになりなさいと教わった。カメレオンのように環境に応じて、自分のあり方を変えるということだ。
彼は、日本人の顧客が多いのだが、ときどき、日本人からマレーシアに適応できないという話を聞くそうだ。
日本人は、礼儀正しくて、時間にも正確だけども、マレーシアでそれを貫くと、かえってつらいことがある。相手のエスニックグループに応じて、対応の仕方を変えればお互い上手くいくというアドバイスだった。
確かに、在留邦人から「マレーシアの人は時間にルーズ」とか「温厚なのはいいけどもそれがかえってのんびりしすぎであだになる」とか「バスでわれ先に乗る」といった話を聞く。確かに、一般的な日本人の価値観からすれば、気に障ることだろう。自分も同様のことを体験し、同様の感想を持ったことがある。
しかし、それをいくら外国人の我々が言っても仕方ない。この国は、そういうルールで成り立っているし、それがゆえに喧嘩などもおこらない。それで問題が無いのである。
そのタクシーの運転手が言うことは至極もっともだ。彼自身、若いときは、自分の考えを変えずに、いらついたりしたことがり、父親からもっと柔軟にと戒められたそうだ。彼は、それを実践できるようになったら、ストレスが少なくなり、人生が楽しく感じられるようになったと言う。
日本人の美点を捨てる必要は無い。実際、マレーシアでも日本人の礼儀正しさと時間の正確さ、信頼性というのは、ある種の尊敬を受けている対象でもあると思う。しかしながら、それを貫く、さらに言えば、マレーシアの人々に期待してしまうとなると話は違ってきてしまうのかもしれない。
カメレオン、日本人的感覚では、八方美人につながりかねないイメージをもつ言葉だろう。しかし、ところ変われば言葉が含意することも変わる。
様々なお客を見てきたタクシー運転手の言葉、妙に説得力がある。これもマルチエスニック社会マレーシアの知恵なのだろう。
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■2001/11/05 (月)
日本人=英語ダメ? |
今日、パソコン用品を買いに行った。2件の店を見たのだが、どちらの店でも「日本人だとは思わなかった。日本人は、普通、英語ができないから。」といわれた。
まず、お断りしておきたいのは、私の英語力は大したことない。私は英語圏へ留学したことはない。海外経験は、アメリカ3泊(といってもグアム)→マレーシア(2週間)→マレーシア(1週間)→マレーシア(2000年8月から現在)ととてもシャビイなものである。おまけに、このマレーシア滞在中にまだマレーシア国外へでていない。
マレーシアでは、日本人=英語できない、というイメージが強い。英語が流暢な日本人だと、「香港人?シンガポール人?」と聞かれるパターン。
これをがちがちのマレーシア英語の人に言われるとパンチ。だが、今日のパソコンショップの人は結構上手な英語だった。そういう人がいう「日本人は英語ができない」という発言には、ちょっとショックだ。
マレーシアに長期滞在している日本人が英語を話せないというのは問題だ。もちろん、海外に来たくて来たのではない人もいる。英語が流暢な人もいる。
でも、今日一日だけで、同じ話を2回も聞くというのは、相当数の日本人が英語ができないのだろう。しかも、普通のお店の人の話である。つまり、普通にものを買うときの英語に不自由をしているということである。ときおり、文化背景の違いなどから、自分の想像しているものと違うものが出てくることがある。しかし、あたらずとも遠からずの表現ができれば、どうにか分かるはずだ。
また、ときおり、英語もマレー語もまったくできないのだが、マレーシアへ留学したいという話を聞くこともある。英語ができずにどのように留学するのだろうか?語学学校で日本語で教えてくれるところは、とても少ない(まったく無いわけではない。)。大学へ行けばもちろん、最低限英語で授業がわからなければだめだし、マレーシアの大学はマレー語もできないと話にならない。
来たくないのに来てしまった、早く帰りたいという人は、気の毒だと思うが、せめて、主体的にマレーシア、あるいは広く海外へ長期滞在しようとする日本人は、最低限の英語(あるいは現地で広く使われている英語以外の言語)を身につけないとまずい気がする。
これはまだまだ英語もマレー語も力が足りない自分への戒めでもあるけども・・・
マレーシアでは、日本語が書いてあるTシャツが流行っている。
傑作を発見した。
巨大ショッピングセンターメガモールのジャスコへ行ったとき・・・
「よそのこ」
と胸に大きな字で書いてある。それ以外のことは書いていないシンプルなデザイン。
果たして着ている人は意味を知っていたのか?買うときにどの辺が格好良いと思ったのか?
そして、今日、ツインタワーのあるショッピングセンターKLCCでは・・・
「憎悪」
そうですか・・・ ごめんなさい・・・ 憎まないで。
まあ、一緒に居た某日本人は「ぞうあく」と読んだが。
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■2001/09/17 (月)
忌むべきはイスラームではなく、テロリストである @ |
マレーシア時間(日本時間−1時間)の12日深夜、滞在先のクアラ・トレンガヌのホテルでアメリカのテロの映像を見た。
映像を見た瞬間は、なんのことだか理解できず、普通の事故かと思った。しかし、マレー語のニュース放送を聞くに連れて、テロ事件と理解。
同事件の詳細は、英語でも日本語でも報道されている通りなので、特に言及しない。
この事件に関して、もっとも私の恐れること、それは「宗教戦争」と言われること。
今回の事件は、テロであって、イスラームがそうさせた行為ではない。すでに、アメリカ国内でもムスリムに対するいやがらせなどが起こっている。マレーシアは国教をイスラームとし、人口の約60%がムスリムの国である。国内のイスラーム知識人は、イスラーム=過激派或いはテロ、と考えてはいけないと言明する。
無論、今回のテロは忌むべき事件であり、国際平和に対する重大な挑戦である。敵はテロリストである。ムスリムではない。たまたまテロリストがムスリムであっただけである。
イスラームについて批判する人々の一体何人がコーランを読んだのだろうか?一方で、キリスト教はある種の正義を持っていると見られている。これは日本国内でも一般的な見方だろう。
キリスト教徒の祈りのシーンは、今回のテロに関わらず、神聖な、厳かな雰囲気で報道される。しかしながら、ムスリムがメッカの方向へ祈るシーンは、どことなく「違う」「怖い」といったイメージで報道される。ここに、イスラームとキリスト教に対するイメージが集約されているのである。
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